横浜事件
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最高裁判所判例
事件名治安維持法違反被告事件
事件番号平成19(れ)1
平成20年3月14日
判例集刑集 第62巻3号185頁
裁判要旨

旧刑訴法適用事件について再審が開始された場合、その対象となった判決の確定後に刑の廃止又は大赦があったときは、再審開始後の審判手続においても、同法363条2号、3号の適用を排除して実体判決をすることはできず、免訴判決が言い渡されるべきである。

旧刑訴法適用事件についての再審開始後の審判手続においても、被告人は免訴判決に対し無罪を主張して上訴することはできない。

旧刑訴法適用事件について再審が開始されて第1審判決及び控訴審判決が言い渡され,更に上告に及んだ後に、当該再審の請求人が死亡しても、同請求人が既に上告審の弁護人を選任しており、かつ、同弁護人が引き続き弁護活動を継続する意思を有する限り、再審の手続は終了しない。

第二小法廷
裁判長今井功
陪席裁判官津野修 中川了滋 古田佑紀
意見
多数意見全員一致
意見なし
反対意見なし
参照法条
旧刑訴法363条2号、旧刑訴法363条3号、旧刑訴法400条、旧刑訴法485条6号、旧刑訴法511条
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横浜事件(よこはまじけん)は、第二次世界大戦中の1942年から1945年にかけて、治安維持法違反の容疑で編集者新聞記者ら約60人から未確認者を含めれば90人ともいわれる容疑者が逮捕され、拷問等により4人が獄死、保釈直後に1人が死亡、負傷者30人を出した、日本の一連の刑事事件[1]。約30人が起訴され、既に終戦後となる1945年8月から9月にかけて有罪とされたが、有罪判決後の同年10月15日には治安維持法が廃止、同月17日には終戦による大赦で、起訴された者はいずれも大赦を受けるか免訴されることとなった[2]。戦後、取調にあたった元特高警察官らは被害者らから告訴され有罪判決を受けたが、こちらは判決直後の1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効による大赦で刑に服することはなかった[2]

戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求を続けた。2005年に再審が開始されたものの、罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴判決が下された。

事件の検挙対象拡大の契機となった写真の撮影地から「泊事件」とも呼ばれ[3]、「泊・横浜事件」という名称も使用されている[4]
経緯
細川論文事件

当事件の「検挙」開始と前後して発生し、のちに当事件に結びつけられた事件である。管轄した警察も異なり、もともとは別個の事件であった[5]

1942年、総合雑誌『改造』(8月号および9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が、9月14日に日本読書新聞陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾される[6]。同日、細川は警視庁世田谷警察署治安維持法違反の容疑で検挙された[7]。この事件は細川個人のみが容疑者とされ、関連して検挙された者はいなかった[7]
神奈川県警察部による検挙「泊・横浜事件端緒の地」記念碑
(朝日町・「紋左」敷地内)

細川検挙の3日前の9月11日、神奈川県警察部特高課は、アメリカ合衆国で労働運動を研究して帰国した川田寿とその妻を「アメリカ共産党の指令を持ち帰った」という容疑で検挙する[3]。しかし川田はアメリカ共産党員だったことはなく、神奈川県警による虚偽の容疑だった[8]。川田は当時世界経済調査会の資料室長を務めており、神奈川県警は川田の関係者に検挙の手を広げる[3]。その中に、世界経済調査会の高橋善雄がいた[3]。高橋は「ソ連問題調査会」を南満州鉄道(満鉄)東京支社調査室のメンバーと結成しており、そこから満鉄調査室も捜査の対象となる[3]。1943年5月11日、満鉄調査室の西沢富夫平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は1枚の写真を発見した[3]

この写真は、細川嘉六と『改造』や『中央公論』の編集者、満鉄調査室関係者などが同席した集合写真(上左から小野康人、細川、西沢富夫、下左から平館利雄、加藤政治、木村亨、相川博)(西尾忠四郎が撮影)で、これを神奈川県警察部は日本共産党再建準備会の写真と決めつけた[3]。実際には細川の郷里・富山県下新川郡泊町(現・朝日町)の料亭旅館「紋左(もんざ)」で撮影されたもので、細川が1942年7月に親しい編集者・研究者を招いて1泊2日の懇親会を催した際の記念写真に過ぎなかった[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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