この項目では、横浜市の西区と中区にまたがる再開発地区について説明しています。西区の町名については「みなとみらい」をご覧ください。
横浜みなとみらい21
横浜市の整備・開発地区
北仲通地区から見た横浜みなとみらい21地区(2021年)
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横浜みなとみらい21(よこはまみなとみらい21、Minato Mirai 21)は、神奈川県横浜市の西区と中区にまたがり[注 1]、横浜港に面している再開発地域である。また、1983年(昭和58年)度から現在にかけて整備が進められている計画都市である。都市景観100選受賞地区。略称は「みなとみらい」、「みなとみらい21」、「MM21」など。
1989年(平成元年)の横浜博覧会 (YES'89) 以降、当該地区の開発が本格化し[3]、首都圏の新都心として、さいたま新都心(さいたま市)と幕張新都心(千葉市)に並び重点的に整備された[4]。当地区全域は、横浜市における都心(ツインコア)の一つである横浜都心に指定されている[5]。みなとみらいと富士山の夕景(2007年2月)みなとみらいの夜景(2014年12月)
概要[ソースを編集]
事業計画と着工までの経緯[ソースを編集]
1980年代に再開発が行われる以前、当地には三菱重工業横浜造船所、国鉄高島線(貨物支線)の東横浜駅および高島駅・高島ヤード(操車場)、高島埠頭、新港埠頭などの広大な港湾・業務関連施設が広がっており[6][7][8]、横浜市の中心部に位置しているにもかかわらず一般の観光客が気軽に立ち寄れるような場所ではなかった。そのため、巨大ターミナル駅で市内随一の繁華街である横浜駅一帯(西区)と、横浜港開港以来の中心市街地である関内(中区)の2つの横浜都心(ツインコア)は長らく分断された状態が続いていた。そういった経緯から、それまでの港湾・業務施設の機能を他所に移転させ、横浜都心部の一体化と都市機能の強化を目指したウォーターフロント都市再開発として計画・建設された。
飛鳥田一雄が横浜市長に当選した1963年当時、「横浜の五重苦[9]」と呼ばれた関東大震災、昭和恐慌、太平洋戦争による横浜大空襲、GHQによる占領と市内都心部の接収[注 2]、および人口急増によるスプロール現象を克服することが地域としての大きな課題となっていた。そのため1965年に横浜市六大事業が提案され、都心部強化として三菱重工業横浜造船所、国鉄高島線の東横浜駅(貨物駅)・高島ヤード(操車場)、高島埠頭、新港埠頭の一帯を再整備し横浜駅周辺と関内・伊勢佐木町という2つに分断された横浜都心部を一体化させる「都心部強化事業」として、就業人口19万人・居住人口1万人を目標とした事業計画が打ち出された。以降、オイルショックをはじめとする経済情勢の影響などにより計画はしばらく進行していなかったが、1979年に細郷道一横浜市長の下で「横浜市都心臨海部総合整備計画」基本構想が発表され、三菱重工業横浜造船所等の移転完了とともに1983年に「みなとみらい21」事業としてようやく着工に至った(事業名および街の名称の決定については後節「#街の名称について」を参照)。なお、この時点では高島ヤード周辺の開発の目処が立っていなかったため、横浜駅側からではなく、前述の造船所跡が広がる桜木町駅側から開発を進めていくことになった[10]。
また、首都圏は東京23区(特に都心3区)の都市機能の集積が大きいため、横浜市は自治体として日本一の人口を擁するものの東京の衛星都市・ベッドタウンとしての側面が強く、横浜市から東京への通勤・通学者数が多いことから横浜市の昼夜間人口比率は常に100を下回り続けてきた。このような東京都心一極集中から首都圏での展都という趨勢の中で、みなとみらい計画は神奈川県および横浜市の経済拠点として首都圏経済を牽引する役割の分担により東京都心の負荷を軽減し、さらには市内経済を活性化するため、企業法人本社機能や事業所等の立地促進、企業法人の集積の波及として起こる中小企業の活性化や新規起業者の増加などを目指している。具体的には日産自動車やいすゞ自動車、京浜急行電鉄といった大企業の東京からの本社移転や、富士フイルム、ソニー、資生堂、村田製作所、韓国のLGなどの研究開発施設(R&Dセンター)の誘致に成功し、横浜市の業務機能(オフィスビル)・就業人口の拡大に寄与した。