横山真人
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オウム真理教徒横山 真人
誕生 (1963-10-19)
1963年10月19日
神奈川県伊勢原市
死没 (2018-07-26) 2018年7月26日(54歳没)
日本愛知県名古屋市東区白壁名古屋拘置所
出身校東海大学工学部応用物理学科
ホーリーネームヴァジラ・ヴァッリィヤ
ステージ正悟師
教団での役職科学技術省次官
入信1988年2月
関係した事件地下鉄サリン事件自動小銃密造事件(責任者)
判決死刑(執行済み)
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横山 真人(よこやま まさと、1963年10月19日 - 2018年7月26日[1][2])は、オウム真理教元幹部・元死刑囚神奈川県出身。ホーリーネームはヴァジラ・ヴァッリィヤ。
人物

横山は教団内でのステージは師長だったが、地下鉄サリン事件3日前に正悟師に昇格した。教団が省庁制を採用した後は科学技術省次官の一人となる。

地下鉄サリン事件の実行犯の1人。横山がサリンを散布した車両では死者を出さなかったが、大量殺傷事件の共同正犯として裁かれ、2007年に死刑が確定した。
来歴

神奈川県伊勢原市で、市役所勤務の公務員の次男として生まれる。大人しく無口な子供で、少年時代は剣道美術に熱中していた。1982年4月県立高校を経て東海大学工学部応用物理学科に入学。平塚市の湘南キャンパスで学び、太陽電池などのクリーンエネルギー開発を専攻した。在学中は、いつもTシャツにジーンズ姿で通し、友人たちとの会話では聞き役だった。1986年4月、大学卒業後に沖電線へ就職。佐波郡の独身寮から通勤し、群馬県の工場で産業用ロボットの設計を担当する。社内報では「趣味は絵画剣道で、血液型B型」と自己紹介した。まもなく職場が変わり、電話機・FAXの接続部品の設計・製造にあたったが[3][4]「自分の製作した機械が導入されることによって合理化でリストラが行われるのでは」などと考え、漠然と生きることに対する虚しさを覚える様になる。[3][5][6]
入信・出家の経緯

1988年2月、書店で手に取った麻原彰晃の著書『マハーヤーナ・スートラ』をその日のうちに読破し感銘を受ける。「何よりも興味を持ったのは、著者自身がそこに書かれていることの体験者だということ。経験できないものは、どんなに素晴らしいことが書かれていても意味がない」「父親が公務員ということもあり、育った家庭環境から、宗教への偏見があったような気がする」、横山はそれまで宗教に対して、良い印象を持っていなかったが麻原の著書を読んでその偏見がひっくり返った。翌日にはオウム本を大量に購入し、「本屋でオウムの本を見た。俺にはあれだ」と、『マハーヤーナ・スートラ』を読んでから僅か1週間後に世田谷区赤堤の東京本部へ行き入信する。1989年2月には、会社の同僚に「真理を追究することに、自己の生きる価値があると感じたから」「私は(教団内で)偉くなりたい。それには土・日だけの修行では足りない」と語り、25歳で退職した。[3][5][7][8]

1989年5月15日オウム真理教出家。家族には「人類を救うために」と話したが、納得してもらえなかったことから「話し合っても仕方ない」と、親子の縁を切った。[7][9]
出家後

「出家してからの修行は瞑想が中心であり、その目的は、最終的に解脱し悟りの境地に達することだった。1日の修行時間は人によって違うけれども、私の場合は長い時で24時間、短い時でゼロだった[10]」、出家後の生活は、睡眠や食事が辛うじて生存に必要な程度に抑えられた異常なものだったが、横山は解脱と悟りを得ることを第一の目標とし黙々と受け入れていた。教団内部では、出家して以来一貫して他人に対して穏やかで寛容に接し、自分の修行については極めて厳しく打ち込む、それに対して何ら弱音を吐いたり不平を漏らしたりしない人物として信頼されていた。[5]

機械班に所属し、機械の修理や、ビラ配りロボット、ホバークラフトの作成をしていた。村井秀夫渡部和実の運転手もしていたが[11]、教団の武装化路線に伴い、AK-74自動小銃の製造を任された(自動小銃密造事件)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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