横山泰三
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この項目では、漫画家について説明しています。本名が同姓同名のお笑い芸人については「たいぞう」をご覧ください。

横山泰造」とは別人です。

横山 泰三
1954年
本名同じ
生誕1917年2月28日[1][2]
日本 高知県高知市[3]
死没 (2007-06-10) 2007年6月10日(90歳没)[1][4]
日本 神奈川県鎌倉市[4]
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1940年代 - 2007年
ジャンル風刺漫画
代表作『プーサン
『社会戯評』
受賞第2回菊池寛賞(1954年)
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横山 泰三(よこやま たいぞう、1917年大正6年)2月28日[1] - 2007年平成19年)6月10日[1])は、日本漫画家

昭和後期から平成初期にかけて活動した[1]毎日新聞夕刊および週刊新潮に連載された『プーサン』、朝日新聞朝刊に連載された1コマ漫画『社会戯評』などの風刺漫画で知られ、痛烈なアイデアと独特な画風で「戦後の漫画界に新風を巻き起こした[5]」と評される。漫画家の横山隆一は実兄[1]
経歴・人物

高知県高知市出身[3]。旧制高知商業学校在学中の1931年(昭和6年)、既にプロ漫画家として活動していた兄の隆一を頼って上京[3]京華商業学校に転じる[2][6]。その後、油彩画家を目指し、川端画学校で3年間洋画を学ぶ[2][3](ただし本人は自伝漫画において、隆一に反対されて入学を断念し、通学自体しなかった旨の場面を描いている[7])。1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)にかけて中国へ出征[3]。陸軍輜重兵として漢口攻略戦に参戦した[2]。除隊後、帝国美術学校(武蔵野美術大学の前身)に入学し、1944年(昭和19年)まで通うも、「軍事教練ばかりで学校がいやにな[7]」り、中退[1]白木屋宣伝部に勤務し、ポスターの製作に従事[7]。この間、雑誌『大阪パック』に投稿した漫画作品が一等に入選した。兄の隆一が「画家志望なら漫画などを描くな」と怒り、それ以降は投稿をやめた[2]

再度の応召で高知県の海岸警備をつとめ、終戦をむかえる[2]腎臓病を患っていた兄を手伝ううちに、自分もふたたび漫画を描くようになる。『新夕刊』の専属として連載小説の挿絵を手掛ける[3]かたわら、『VAN』『ホープ』などで執筆。活動当初はロートレックのような流麗な線を用いたタッチ[8]で、戦後の開放的な風俗をテーマにしたエロティックな風俗漫画を描いていたが、やがてスタインバーグの影響を受けた[9]「点と線とでもいうべきタッチ[8]」「着想の奇抜さとギリギリまで省略したシンプルな線描[4]」へと画風が変化した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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