横山ノック
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日本政治家横山 ノックよこやま のっく
山田 勇
やまだ いさむ
生年月日1932年1月30日
出生地 北海道旭川市
没年月日 (2007-05-03) 2007年5月3日(75歳没)
死没地 兵庫県西宮市
出身校神戸市立楠木高等小学校卒業
前職米軍施設勤務
漫才師
お笑いタレント
所属政党(第二院クラブ→)
革新自由連合→)
民社党・国民連合→)
無所属
子女山田一貴
公式サイト ⇒ノックのあたま(横山ノックの公式ホームページ)
第48・49代 大阪府知事
当選回数2回
在任期間1995年4月23日 - 1999年12月22日
参議院議員
選挙区(全国区→)
大阪府選挙区
当選回数4回
在任期間1968年7月8日 - 1974年7月7日
1977年7月11日 - 1995年3月25日
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本名山田 勇
ニックネームノック師匠
ぴっかりくん
エロだこ
別名義立川禿談次
生年月日1932年1月30日
没年月日 (2007-05-03) 2007年5月3日(75歳没)
国籍 日本
出身地兵庫県神戸市生田区相生町
血液型O型
方言関西弁
最終学歴神戸市立楠木高等小学校
師匠横山エンタツ
トリオ名漫画トリオ(1960年 - 1968年)
相方横山フック
横山パンチ
(トリオ時代)
芸風漫才(ボケ)
立ち位置中央(トリオ時代)
事務所やまだ真企画
活動時期1955年 - 2006年
過去の代表番組ノックは無用!
ラブアタック!
弟子横山やすし
横山プリン
乃木貴寛
など
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横山 ノック(よこやま ノック、本名 山田 勇(やまだ いさむ)、1932年1月30日 - 2007年5月3日)は、日本の漫才師お笑いタレント司会者政治家。個人事務所のやまだ真企画に所属していた。

北海道旭川市生まれ、兵庫県神戸市生田区相生町出身。血液型はO型。3人兄弟の長男(弟2人)。愛称は「ピッカリくん」「タコ小僧」「明石のタコ」「ノック先生」。立川談志一門でもあり、「立川禿談次」という高座名も持つ。政治家として参議院議員大阪府知事を歴任した。
来歴

1932年1月30日午前5時27分、北海道旭川市にて出生し、生まれてすぐに船員であった父の仕事で生後まもなく神戸(兵庫区)へ転居。

学歴は神戸市立楠木高等小学校卒業。高等小学校(現在の中学校に相当)のみを卒業した政治家であった。

高等小学校卒業後に米軍施設に勤務しており、本名をもじった「サミー」と呼ばれていた。
若手時代

1955年に宝塚新芸座に入団すると共に秋田Aスケ・Bスケの2代目Bスケに弟子入りし、三田久として初舞台を踏む。その後、兄弟子のOスケ(のちの平和ラッパ・日佐丸の三代目平和日佐丸)と秋田Kスケの名で漫才コンビ「秋田Oスケ・Kスケ」を結成。京都新京極富貴で初舞台。1958年松竹芸能に移籍[注釈 1]。だが、Kスケに水面下で大宝芸能への移籍話が持ち上がり、松竹芸能に残留したOスケと袂を分かつことになる。このころの芸風はどたばた系のOスケがKスケをどつく「どつき漫才」であった。
「横山ノック」誕生

大宝に移籍後しばらくは秋田Kスケの名で活動していたが、亭号を返上し、再び三田久の名で活動する。その後、友人であり「北野劇場」に出演していた縁もあり関西テレビプロデューサー・石田正治を介して彼の実父・横山エンタツに再入門、Oスケ・Kスケを逆様にしたKOつまりノックアウト(Knockout)に由来した横山ノックの名で漫才コンビ「横山ノック・アウト」を結成したが、しばらくして解散した。

この頃に長女が誕生している。

1960年、小林龍太郎(後の上岡龍太郎)と小林が紹介した田川元祥&リズムワゴンボーイズのドラマー・轟盛次(漫才師、轟一蝶・美代子の一蝶の長男)を誘って漫画トリオを結成した。轟は横山フック、小林は横山パンチと名乗らせた。しゃべくりだけのトリオ漫才とニュース漫才は当時非常に斬新で話題となり、好評を博す。(後述)

漫画トリオ結成当初は吉本興業に所属していたが、後に個人事務所の京都芸能プロダクション(通称:京芸プロ)を設立し、東京新宿松竹文化演芸場にも連続出演。同演芸場のレギュラーだった立川談志(当時・柳家小ゑん)と兄弟分になる。吉本からの独立時に出された条件は「独立後も月に10日間は(吉本が運営する)花月の舞台に客演として出演し続けること」であったと言われ、当時としては珍しい円満退社であったとされている。

1963年、フックが離脱(事実上の解任)し白木みのるの付き人をしていた小島あきら(後の青芝フック)を2代目に迎え入れた。
漫画トリオ

ノックがボケ、フックとパンチがツッコミ。それまでのトリオ漫才は、かしまし娘フラワーショウちゃっきり娘三人奴宮川左近ショーなどのように楽器を用いた音曲漫才だけであったが、ノックが「トリオで正統漫才をやりたい」とこだわって編み出した。

ノックはツッコミのセンスも高く、フックやパンチに対しても、ツッコミの指導を行うなどした。

レツゴー三匹と並び称されるところがあるが、レツゴー三匹が正児とじゅんの正統漫才に長作が歌や合いの手を入れるのと違い、あくまでも3人がタイミングよくネタをまわし続け、休む人物が基本的に発生しない。

例)ノック「今日」パンチ「君(ノック)んとこ行ったけど」フック「おらなんだ」

ノックが米軍に勤務し、パンチがジャズ喫茶に出入りしていたことからテンポを重視する傾向があったものと思われる(フックが代替わりしたのも、初代がノックの理想のテンポについていけなかったからである)。また、ノックがコンビ別れを繰り返し、今のスタイルではだめだ、と考え、新しいスタイルを模索していたことも遠因である。

ネタ自身もその影響が濃く、洋楽や米軍式行進なども取り入れていた。時事ネタも、そのノックの提唱した「新しいスタイル」の一環である。ネタはまず、パンチが左手、フックが右手を斜め上に差し出し、(3人で)「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン」「今週のハイライト」というブリッジを言って始まる。このブリッジの「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン」は、フックがバンドマンだった頃に気に入っていた曲の一節だった。「ハイライト」は吸っていたタバコの銘柄からきている。このニュースネタ収集のため各種のニュースに触れていった結果、ノックは政治家への転身を考えるようになる。なお、このネタは旧うめだ花月に近所にあった喫茶店「アメリカン」で3人で考えた。

当時のノックはすでに禿げ上がっていたが、後頭部からヘアピンを使ってナポレオン1世のようなピンカールを付けていた。ところがある時、海外公演があり飛行機に乗ることになったため、探知機に反応しないようヘアピンを外しピンカールかつらを付けることになった。帰国後、それを忘れていたパンチが「ええかげんにせぇ!」といつものように突っ込むとピンカールが客席めがけて飛んでいき、観客は悲鳴を上げた。このピンカールは、ノック・上岡龍太郎司会のトーク番組『ノックは無用!』(関西テレビ)1975年3月31日分において「断髪式」が執り行われ、「この髪形でお金儲けさせてもらったお礼も込めて」とそのまま局舎近所の堀川戎神社へ奉納された。


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