横山たかし・ひろし
メンバー横山 たかし(本名:山高 考)
生年月日:1948年10月6日
没年月日: (2019-06-01) 2019年6月1日(70歳没)
横山 ひろし(本名:小林 秀光)
生年月日: (1947-01-19) 1947年1月19日(77歳)
結成年1968年
事務所松竹芸能
活動時期1968年 - 2018年[1]
師匠横山やすし
正司玲児
芸種漫才
過去の代表番組バラエティー生活笑百科
受賞歴
第1回NHK上方漫才コンテスト新人賞(1971年)
第3回NHK上方漫才コンテスト優秀努力賞(1973年)
第3回上方お笑い大賞銀賞(1974年)
第29回上方漫才大賞大賞(1994年)[1]
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横山たかし・ひろし(よこやまたかし・ひろし)は、松竹芸能所属の漫才コンビ。横山やすしの弟子で、ともに明蝶芸術学院の出身。1968年(昭和43年)コンビ結成。同年新世界新花月で初舞台。ホラ吹き漫才の第一人者でもあった。 横山たかし(よこやまたかし、1948年(昭和23年)10月6日 - (2019-06-01) 2019年6月1日(70歳没)[1])ボケ担当、愛媛県伊予郡松前町出身。本名:山高 考(やまたか たかし)。横山たかしの名は三代目。初代は横山プリン、二代目はレツゴー正児(レツゴー三匹)。 横山ひろし(よこやまひろし、 (1947-01-19) 1947年1月19日(77歳) - )ツッコミ担当、愛媛県越智郡波方町(現在の今治市)出身。本名:小林 秀光(こばやし ひでみつ)。妻は松竹芸能の後輩にあたる漫才師の春けいこ(元春やすこ・けいこ、たかしの死去後に漫才コンビを結成。後述)[2]。
プロフィール
来歴・エピソード
2人とも松竹新喜劇俳優の曽我廼家明蝶の設立した明蝶芸術学院の3期生。明蝶と学院について「(明蝶は)売れてないころも“うちの子や”と、よく名前を出してくれた。明蝶学院は、たかし・ひろしの原点」と語っている[3]。
コンビ結成直後から、オカマに扮したたかしが、相方のひろしに迫る「おかまどつき漫才」でいきなり売れ、1971年(昭和46年)のNHK上方漫才コンテスト新人賞受賞するなど、下積みの苦労は余りしていない。しかし当時の放送倫理基準では問題視され、テレビ・ラジオからの出演要請が少なかったため、寄席主体だった(『ナンバ壱番館』(朝日放送テレビ)、『上方演芸会』(NHK大阪放送局))。なお『笑点』(日本テレビ)には、1970年代前半からたかしが療養に入る前まで、何度も出演している。
ホラ吹き漫才は1971年、神戸松竹座に出ていた頃、たかしが当時人気だった歌手の藤圭子の愛人だとホラを吹いたら受けたので、その後田中角栄の大言壮語を振ったりしたことで、ホラ吹き漫才のスタイルが生まれた(上方演芸会)。またたかしの派手な燕尾服の衣装はたまたまテレビで園遊会のニュースを見ていたら着ている人がいて参考にした。
生活苦に喘いでいるというネタを信じた客が泣き出したり、「これでご飯を食べなさい」と現金を渡されたことがある[4]。
マンネリ化もあって、漫才ブームにも無縁のまま低迷、1990年代に入ってやしきたかじんが「たかし・ひろしの漫才は面白い」と番組のゲストに呼んだことを契機に、再浮上した。たかしは「たかじんのお陰で飯を食えるようになった」と、べんちゃら含みの発言をしている。
1988年頃に20周年を機会に芸に行き詰まりで解散・廃業を考えたことがある。営業の終了後に喫茶店で話し合いが持たれた。
1994年(平成6年)、第29回上方漫才大賞で大賞を受賞。
たかしはデビュー当時のオセロ(当時)の中島知子と松嶋尚美に対して『10年間頑張ったら100万円やる!!』と高言を吐いた。そして活動10年目の正月に中島と松嶋二人が、たかしの楽屋を訪れ『活動10年目に入りました、約束はどうなっていますか?』に対し、たかしは「すまんかった!勘弁してくれ!!」と土下座して謝り、値引きして二人に10万円をやった。
2009年(平成21年)コンビ結成40周年。近年ひろしはボケ防止のため、落語に挑戦している。
2014年3月に、たかしが腰部脊柱管狭窄症を発症し、約1年の間活動を休止した。