横尾泥海男
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よこお でかお
横尾 泥海男

本名横尾 勇よこお いさむ
生年月日 (1899-08-09) 1899年8月9日
没年月日 (1956-07-05) 1956年7月5日(56歳没)
出生地 日本 佐賀県
死没地 日本 東京都杉並区井荻(現在の同区善福寺西荻北辺り)
身長185cm
職業俳優
ジャンル軽演劇劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間1923年 - 1955年
主な作品
『女は強くて独りもの』
『ねえ興奮しちゃいやよ』
『夜の牝猫』
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横尾 泥海男(よこお でかお、1899年8月9日 - 1956年7月5日)は、日本俳優である[1][2][3]。本名は横尾 勇(よこお いさむ)[1][2][3]松竹蒲田撮影所東宝などの喜劇映画で活躍した名脇役である。
来歴・人物

1899年(明治32年)8月9日佐賀県に生まれる[1][2][3]。父親は佐賀藩(鍋島藩)の藩士であったという[1][2][3]

幼少期、一家と共に東京府東京市麻布区飯倉町(現在の東京都港区麻布台および東麻布辺り)に移る[1][2]。飯倉小学校(後の東京都港区立飯倉小学校、2004年廃校)、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}旧制麻布中学校(現:麻布中学校・高等学校)[要出典]を経て東京美術学校(現:東京芸術大学)洋画科に入学[1][2][3]黒田清輝(1866年 - 1924年)の画塾にも通っていたが、同塾で後に映画監督となる鈴木重吉(1900年 - 1976年)と知り合う[1][2]

卒業後、栃木県立宇都宮高等女学校(現:栃木県立宇都宮女子高等学校)で教諭を2年間だけ務め、兵役も1年だけ就き、1923年(大正12年)、松竹蒲田撮影所美術部に入社[1][2][3]。次いで助監督に転向したが、身長185センチ、体重98キロという大柄な体型を買われ、1925年(大正14年)5月公開の鈴木傳明(1900年 - 1985年)主演のサイレント映画『春は来れり』に助演したのがきっかけで俳優に転向し、横尾泥海男を芸名とする[1][2][3]。以後、「傳明グループ」の一人として鈴木傳明主演映画に殆ど出演するほか、撮影所長城戸四郎(1894年 - 1977年)が推進する短編喜劇映画で活躍した。1927年(昭和2年)には早くも準幹部に昇格し[1][2]、1929年(昭和4年)の鈴木傳明主演、牛原虚彦監督映画『彼と人生』では吉谷久雄(1903年 - 没年不詳)の小さな労働者役に対して大きな労働者役で出演し、凹凸コンビで知られた。また、1931年(昭和6年)公開で五所平之助が監督を務めた日本初の本格的なトーキー映画マダムと女房』の冒頭に登場する画家役で出演している[1][2]

1931年(昭和6年)9月、鈴木傳明、渡辺篤らと共に蒲田撮影所を退社し、不二映画社の設立に参加した[1][2][3]。1932年(昭和7年)11月には渡辺らと浅草公園劇場に喜劇爆笑隊を旗揚げした。1933年(昭和8年)3月の同社解散後は、同年4月に古川緑波(1903年 - 1961年)が設立した劇団笑の王国に参加し、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)にある常磐座での旗上げ公演『われらが忠臣蔵』など、大男を売りにして活躍した[1][2][3]。同年8月に公開した写真化学研究所(後のピー・シー・エル映画製作所)の第1回自主製作品『音楽喜劇 ほろよひ人生』に出演[1][2][3]。同作では『彼と人生』で演じたのと同一の対比のキャスティングが行われ、吉谷久雄の子泥棒役、横尾の親泥棒役の凹凸コンビを演じた。また、高田稔(1899年 - 1977年)が興した高田プロダクションの作品にも出演していた。

戦後も榎本健一清水金一らが主演の喜劇映画で活躍[1][2][3]。1945年(昭和20年)に製作され、1952年(昭和27年)に公開された黒澤明監督映画『虎の尾を踏む男たち』にも出演している。ところが、1955年(昭和30年)公開の津田不二夫監督映画『正義の快男児 中野源治の冒険 完結篇 地下砲台の恐怖』に出演して以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明であった[1][2]が、翌1956年(昭和31年)7月5日、腎臓炎のため、東京都杉並区井荻(現在の同区善福寺西荻北辺り)の自宅で死去した[3]


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