横光 利一
(よこみつ りいち)
30歳の横光利一(1928年)
誕生横光 利一(よこみつ としかず)
1898年3月17日
日本・福島県北会津郡(本籍地は大分県宇佐郡長峰村)[1]
死没 (1947-12-30) 1947年12月30日(49歳没)
日本・東京都世田谷区北沢
墓地多磨霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学政治経済学部除籍
活動期間1922年 - 1947年
ジャンル小説、俳句
文学活動新感覚派
代表作『日輪』(1923年)
『蠅』(1923年)
『春は馬車に乗って』(1926年)
『機械』(1930年)
『上海
横光 利一(よこみつ りいち、1898年〈明治31年〉3月17日 - 1947年〈昭和22年〉12月30日)は、日本の小説家・俳人・評論家。本名の漢字表記は同じで、「よこみつ としかず」と読む[4]。
菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蠅』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ(ただし、河上徹太郎によればこの称号は皮肉混じりに冠せられたものだという[5])、志賀直哉とともに「小説の神様」とも称された[6]。
戦後は戦中の戦争協力を非難されるなか、『夜の靴』などを発表した。死後、再評価が進んだ。また、西洋近代の超克をめぐる横光への文学的評価の是非は文学者、作家の中でも大きく分かれることが多い。
生涯
幼少期利一が誕生した会津若松市の東山温泉
1898年(明治31年)3月17日、福島県北会津郡東山村大字湯本川向の旅館「新瀧」(今の東山温泉)で、鉄道の設計技師であった父・梅次郎(31歳)、母・小菊(こぎく、27歳)の長男として生まれる[4]。岩越鉄道(現・磐越西線)開通工事のため、東山温泉に来ていた[4]父は、大分県宇佐郡長峰村大字赤尾(現・宇佐市四日市町赤尾)出身で、代々藩の技術を担当した名家の出であった[7][8]。父は鉄道技師としても優秀で、業者からは「鉄道の神様」とも呼ばれていたという[9]。母は三重県阿山郡東柘植村(現・伊賀市柘植町)出身の四女で、松尾芭蕉の家系をひくといわれる[10]。3月17日は菅原道真の命日でもあり、母は天神様の命日に生まれたから運が強い、といって育てられた[4]。
4歳上に姉・しずこがいた。父の鉄道敷設工事の仕事の関係で、幼少時、千葉県佐倉市、東京赤坂、山梨県、三重県東柘植村、広島県、滋賀県大津市など各地を転々とする。
1904年(明治37年)4月に大津市尋常小学校に入学した[11]。「尋常小学読本」施行後の最初の学年であり、横光らは日本近代の国語政策のもとで教育を受けた第一世代であった[6]。1906年(明治39年)6月から父が軍事鉄道敷設工事のため朝鮮へ渡ることとなり、母の故郷である三重県阿山郡東柘植村に戻り、小学校時代の大半を過ごした。友人に宛てた手紙でも「やはり故郷と云えば柘植より頭に浮かんで来ません」と記している。1909年(明治42年)5月、滋賀県大津市に移住し、西尋常小学校に転校。小学校卒業後に膳所中学校(現・滋賀県立膳所高等学校)を受験したが落第したため、高等科へ進んだ[12]。利一が通った三重県第三中学校(現三重県立上野高等学校)。建物は当時のまま。
1911年(明治44年)、大津市大津尋常高等小学校高等科を修了し、13歳で三重県第三中学校(現・三重県立上野高等学校)入学[13]。