横井英樹
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よこい ひでき
横井英樹
生誕
1913年7月1日
愛知県中島郡平和村(現稲沢市
死没 (1998-11-30) 1998年11月30日(85歳没)
東京都
出身校高等小学校中退
職業実業家
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横井 英樹(よこい ひでき、1913年大正2年)7月1日 - 1998年平成10年)11月30日)は、日本実業家1953年(昭和28年)の老舗百貨店、白木屋(のちの東急百貨店日本橋店)の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出で脚光を浴びた。出生名は横井千一。
来歴・人物
生い立ち

愛知県中島郡平和村(平和町を経て現稲沢市)の貧しい農家に二男、千一として生まれた。祖母が「千両箱」や「千人力」の「千」が好きで千一と付けたが、本人はその名は好きではなく、後に「英樹」と改名する。

父親の鉞次郎(えつじろう)は18、9歳の頃にお尻にデキ物ができ、手術をしたら足が悪くなり仕事をしなくなった。やけになり朝から酒を飲み道の真ん中に大きく寝、通行人が通ろうとするとガバッとおきあがり銭をせびっていたという[1]。相撲取りのように体が大きく、鉞次郎がいたらみんな逃げていた。鉞次郎は家の中でも暴れ、妻の政(まさ)の髪の毛をひっぱるなどの暴力をふるい、政と千一は夜に裸足で逃げたこともあったという。酒乱の鉞次郎をみていた千一は成人してからもアルコールはほとんど飲まなかった。鉞次郎は千一が学校に通うのを嫌い[1]、「ウチのような貧乏人は、子供を学校へなんかやらんでいい。字なんておぼえんでいい!」と千一のカバンを隠したり、教科書を破ったりしていた[1]。それでも千一は遅刻をしてでも小学校に通った。同級生によると成績は優秀で字もうまかったという。ただ乱暴者でガキ大将だったとのことであった[1]

母の政は近所の農家の機織りをして辛うじて一家の家計は保たれていたが、必死に働く母を見て千一は小学校の頃から働き始める。それを不憫に思った近所の石田輝英は「自分の好きなものをつくれ」と石田家の畑の端の90坪の土地を貸した。その土地で千一はジャガイモや白菜を作り近所で売った。売ったお金で母親においしい物を買ってあげた。家の前に建つ紡績工場を見ては伯母に、「いまに、ああいうでかい工場を建ててみせるでよ」と豪語していたという。書道の素質を見込んだ菩提寺の忍順寺の住職が高等小学校に上げてくれたが1年で退学した。15歳になった千一は行李に浴衣・ぞうり姿で上京する。
横井商店開業

上京後、英樹に改名。東京日本橋のメリヤス問屋「渡辺商会」へ丁稚奉公。1930年(昭和5年)3月10日、独立し「横井商店」を開業。17歳のときであった。1942年(昭和17年)、29歳のとき、第二次世界大戦をきっかけにボロ儲けのチャンスを得る。それまで経営していた繊維問屋をたたみ、軍需品の製造に専念することになる。「横井商店」を「横井産業」に変更し陸海軍、軍需省の管理会社として全国各地に工場を建設し3000人の職員を擁するまでになった。横井は海軍中将にうまく取り入り御用商人となった。

戦争で南方に行く海軍陸戦隊の防暑服の製造を一手に引き受けた。また現地で接収してきた電動ミシンを何百台と手に入れた。大宮の工場で女学生を勤労動員させ、接収した電動ミシンを使い防暑服を大量生産をした。これで横井は人生最初の大儲けをし、いわゆる戦争成金となった。終戦後は連合国軍御用工場となるが、繊維業界が先細りとなることを察知し全工場を閉鎖させた。横井は不動産の暴騰を見越し不動産業に乗り出す。

横井は鎌倉熱海軽井沢梨本伊都子の回想によると旧梨本宮の別荘のみならず車も買い取り、宮家の紋章をつけたまま乗り回していたという)、箱根の土地を買いあさり、銀座のビルをも買収した。横井の土地の買い方は全て5年月賦で支払い、払い終わる前に土地の値段が暴騰し、資産は20億円以上になっていた。この資金が白木屋買収の足掛かりとなった。
白木屋乗っ取り事件

横井は財を築いたとはいえ、財界からはただの成り上がりにしかみられなかった。横井は財界人と認められたいという野望を抱き日本橋にある白木屋の買収を画策する。当時の取引先の一つに老舗百貨店、白木屋の関連企業である白木金属工業があり、いつまで経っても決済できないので同社の内情を調べると、親会社の白木屋が経営的に不安定だったことが判明[注釈 1]。これを動機として1950年(昭和25年)に同社の乗っ取りを決意、株の買い占めにかかり1953年(昭和28年)1月には発行株式数の4分の1を超す102万8000株を買った。同じく白木屋の株を買い占めていた日活堀久作と手を結び白木屋の資本金2億円、額面50円として発行済株式総数400万株のうち100万株を買い占め、堀の持ち株を含めると過半数となった。これに焦った白木屋側は財界に働きかけ、同年2月1日、堀の提案で、日活ホテルの堀の部屋でそれぞれの財界人を後ろ盾にして白木屋陣営と横井陣営との対話の場が用意された。

白木屋の社長である鏡山忠男は「白木屋は江戸時代から300年続く名門だ。横井君がどのような手段で株を集めたのかは知らないが、どこの馬の骨とも素性の明らかでない者を重役に迎え入れることは絶対にできない」と言い放った。すると横井は「私は、なるほど、鏡山さんのいわれる血統とかは素性とかはたいしたことないかもしれない。しかし現在は資産30億円、借金20億円、差し引き10億円を持っている。たとえ私が最後の一人になっても、この資材を投げこんで、全株数を握ってみせる!」と反論した。ところが堀は所有していた株を突如売却[注釈 2]。堀の所有した持ち株は山一證券を経て三信建物の林彦三郎に渡ってしまう。堀は買収から撤退。

その一方で白木屋の社長の鏡山は、総会屋の大物である久保祐三郎を参謀格にし、横井の買い占めに対抗する。久保からすれば戦後の繰り上がりで社長になった鏡山は、親交面でも財界人の格にしても若干の不安のある相手だったが横井の遣り口に反発して参画した。久保は横井の株式が繊維関係の株式会社の名義であったことに着目。白木屋の株を買うことは独占禁止法違反という理由で、横井側の株式を議決権行使停止の仮処分で塩漬けにしてしまう。しかし、横井の執念はこれで抑えることはできず、既に買い占めた持ち株を抱えながら彼は当時の価格として4億以上を持ち出しあくまで買い続けた。また、久保に対抗できる大物として総会屋の田島将光を招き入れて経営陣に相対した。財閥本家にコネを持つ田島からしても横井の財界人の格は下だったが、かつて田島が鏡山に和解を忠告した際に格下の鏡山に拒絶された経緯があり此方も面子を重んじる稼業の感情面が働いていたとされる[注釈 3]

翌年の1954年(昭和29年)3月31日、浜町中央クラブにて白木屋の株主総会が行われた。横井側の財界人は千葉銀行古荘四郎彦山種証券山崎種二、高利貸しの森脇将光、のちの買い占め王となる鈴木一弘が肩入れ、総会屋は白木屋側は久保祐三郎を配し、横井側は田島将光を配し総会場には2つの入り口が設けられ、白木屋側に新田組、安藤組、殉国青年隊らが動員された。株主総会では決着は付かず法廷闘争まで及んだ。裁判は長期化し、白木屋側、横井側も疲弊しきっていた。そこで横井は東急の五島慶太に買収を頼む策を講じる。横井は白木屋の株を買い取りをお願いするため、ほぼ毎日朝の6時に五島の家の前に立ち出勤を見送り、旅行に行く際には東京駅まで列車が出発するまで見送るなどしていた。その熱意によって五島は白木屋の買収に乗ることになる。ただし1株350円でしか引き受けないという条件であった。結果的に横井は5億8000万も損したことになる[注釈 4](その後、白木屋は東急百貨店日本橋店となるが、横井他界の翌1999年平成11年)1月、経営効率化と店舗老朽化のため閉店した。[注釈 5])。

1956年(昭和31年)1月半ば、五島は築地にある料亭に横井と鈴木一弘を招き、五島は「君たち“五島学校”に入学せんかね、君たちのような生きの良い若い勝負師と組んで、まだまだ面白い仕事をしてみたい」と言い、それを聞いた横井は「五島会長、お言葉ありがたく頂戴させていただきます。今回の株の損は五島学校の入学金と思えば別に高いとも思えなくなってきました」と五島学校の門下生となった。しかし鈴木は門下生にはならなかった。白木屋乗っ取り騒動の一件で横井は五島という後ろ盾を得、その後も五島の企業買収にエージェントとして関わることが多かった。この間の1958年(昭和33年)6月11日、横井英樹襲撃事件が発生する。

1959年(昭和34年)には東洋精糖の株買占めに乗り出す。買占め側にも、一方秋山正太郎を始めとする経営陣側にも、総会屋やヤクザ右翼が大勢絡む格好となり、さながらオールスター総出演の様相を見せていた(株主総会でも平気な顔で座っていたらしく、面の皮の厚さを見せつけた)。ところが後一歩で経営権を取得できるところまでいったところで、五島が急死。東急を継いだ五島の長男は、東急が横井に協力して買い占めていた東洋精糖の株式を東洋精糖の経営陣側に譲渡するなどの調停案(岸信介の絡みで永田雅一がまとめた)で合意し、東急は乗っ取りから撤退、東洋精糖の乗っ取りは結局横井が一人孤立してしまう格好になってしまう。このため、五島邸へ直接出向いて抗議している。

横井にとって五島慶太の急死とともに衝撃だったのは五島昇から終生出入りを断られたことである。しかし同じ五島門下生である、国際興業社主小佐野賢治は昇から敬意が払われ、後に富士屋ホテルの買収で対立することになる。
富士屋ホテル事件

同じ五島慶太を師に仰ぎ、その五島から箱根の強羅ホテルを買った小佐野賢治がインテリに対する劣等感をぬぐえずにいたことに比べると、能天気でお気楽で執着心の強い横井の方が世間の注目を集めた。


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