横井時雄
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横井 時雄
牧師時代の横井時雄
生誕 (1857-12-02) 1857年12月2日
肥後国(現・熊本県
死没 (1927-09-13) 1927年9月13日(69歳没)
大分県別府市
職業牧師教育者政治家
配偶者横井みね山本覚馬次女)
子供長男・山本平馬
次男・横井直興
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横井 時雄(よこい ときお、1857年12月3日安政4年10月17日》 - 1927年昭和2年)9月13日)は、日本牧師ジャーナリスト編集者逓信官僚衆議院議員同志社第3代社長(現・総長)。一時期、伊勢時雄を名乗る。父は幕末期に活動した儒学者の横井小楠
来歴1883年の第三回全国基督信徒大親睦会、横井は前から3列目の右から3人目、左隣が宮川、最前列右端が海老名

1857年(安政4年)、熊本藩士・儒学者横井小楠の長男として肥後国上益城郡沼山津(現在の熊本市東区)に生まれる。小楠の横死後、世をはばかって一時伊勢姓を名乗る[1]熊本洋学校に学び、1876年明治9年)には熊本バンドの結成に参加。同年に上京して開成学校同人社で学び、宣教師カックランから受洗[2]。翌年に同志社英学校に転入。

1879年(明治12年)に同志社を卒業ののち伝道者として愛媛県今治市に赴任、新島襄により按手礼を受けた。1883年(明治16年)には上京して、宮川経輝海老名弾正ら熊本バンドのメンバーと共に、第三回全国基督教信徒大親睦会の幹部として活動する。同年には松山高吉中村栄助とともに同志社社員(理事)となる[3]

1886年(明治19年)、今治教会牧師を辞任。同志社の教師を経たのちに、1887年(明治20年)に再上京し、帰郷した義弟・海老名弾正に代わり、本郷教会の牧師をつとめる傍ら、『基督教新聞』、『六合雑誌』の編集にも携わったほか、内村鑑三を支援した。また、この頃から自由主義神学思想に傾倒していき、1894年(明治27年)にはその思想を鮮明に打ち出した『我邦の基督教問題』を著した。同年から1896年明治29年)までイェール大学神学校に留学[1]

1897年(明治30年)、丁酉懇話会の設立に加わり、同年に同志社の第3代社長に就任。しかし、「同志社綱領」改訂問題に起因する学内混乱の責任を負い、わずか1年半で社長を辞職した。その後官界に転身し、逓信省官房長をつとめた。1903年(明治36年)、岡山選挙区より立憲政友会公認で衆議院議員選挙に立候補し、当選を果たした。1909年(明治42年)、日本製糖汚職事件で拘禁され、同年5月6日に衆議院議員を辞職[4]。同年8月10日に東京控訴院第一部で、重禁錮5ヶ月、追徴金2500円の実刑判決が言い渡された[5]。これにより正五位返上を命じられ[6]勲四等を褫奪された[7]

雑誌『時代思潮』を発行したほか『東京日日新聞』の主幹もつとめた。

1919年大正8年)、パリ講和会議に出席。

1927年(昭和2年)、大分県別府市にて死去。墓所は京都市天授庵
親族

父は
横井小楠

母は小楠の門下生だった矢嶋源助の妹・津世子。津世子の姉妹に徳富久子竹崎順子矢嶋楫子がおり、金森通倫徳富蘇峰徳冨蘆花は親戚。

妹・みや海老名弾正の妻である。

最初の妻・横井みね(1862-1887)は山本覚馬の次女で、2児をもうけたが24歳で死去。長男は山本覚馬が引き取り養子とした。

後妻は柳瀬義富の五女・豊(トヨ、1869年生)。柳瀬家は愛媛県今治市で木綿商を代々営む旧家で、義富は家業の織物会社「興業舎」(今治タオル草創期の代表企業)の社長を務めた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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