権藤博
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権藤 博中日一軍投手コーチ時代
(2012年8月28日、こまちスタジアム
基本情報
国籍 日本
出身地佐賀県鳥栖市
生年月日 (1938-12-02) 1938年12月2日(85歳)
身長
体重177 cm
73 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手三塁手遊撃手
プロ入り1961年
初出場1961年4月9日
最終出場1968年9月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


佐賀県立鳥栖高等学校

ブリヂストンタイヤ

中日ドラゴンズ (1961 - 1968)

監督・コーチ歴


中日ドラゴンズ (1973 - 1983)

近鉄バファローズ (1988 - 1989)

福岡ダイエーホークス (1991 - 1993)

横浜ベイスターズ (1997 - 2000)

中日ドラゴンズ (2012)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2019年
得票率76.7%(133票中102票)
選出方法競技者表彰(エキスパート部門)
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権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手投手内野手、右投右打)、野球解説者野球評論家

次女は「株式会社SONOKO(旧:トキノ)」の社長を務めた権藤嘉江子。
経歴
プロ入り前

鳥栖高校では内野手だったが、投手不在となり投手に転向。3年次の1956年には夏の甲子園佐賀大会準決勝に進出するが、佐賀商に惜敗。甲子園には行けなかったものの、その活躍から西鉄にスカウトされたが、その後に受けたブリヂストンタイヤのテストに合格。西鉄のテストで三原脩監督と川崎徳次の前で投げたことが自信になり、ブリヂストンのテストでは誰もバットにかすらなかった[1]。先にブリヂストンから合格通知が届いたことと、当時はまだ体重62kgと体が細かったことで西鉄を断り[1]、卒業後の1957年に入社[2]。同社の久留米工場用度課に配属され、8時10分始業で16時10分終業のなか、野球部は14時に上がって練習だった[1]。当時の福岡は社会人野球が盛んで、近くには日鉄二瀬東洋高圧大牟田北九州地区には八幡製鐵門司鉄道局と全国に名を馳せる名門がひしめいていたが、ブリヂストンは同好会のようなチームで、練習は個々の自主性に委ねられていた[1]。華奢であった権藤は体力作りに勤しみ、腹筋背筋ランニング、球場近くにある筑後川の川べりを毎日走った[1]。徐々に体が強くなり、球も速くなったが、もとより身体能力は抜群で、他分野からも高い評価を受けていた。織田幹雄が「何とかコイツを東京オリンピックに出せないものか。出れば金メダルは確実」とため息をつき[3]、東京オリンピックに向けて陸上競技400mハードルの選手に転向してほしいという要請があったという逸話がある[4]。3年目の1959年にはブリヂストンの球場に日本石油日本通運立教大などが来て試合をしたが、ほとんど打たれなかった[1]。対戦した投手には1957年の第3回世界野球大会で日本の優勝に貢献した堀本律雄もいたが、堀本が投げるブルペンの後ろで見ていた同期入社でバッテリーを組む堤田忠夫が「ゴン(権藤)のほうがすごい球だよ」と言ってくれた[1]

1960年都市対抗北九州南部予選初戦で、強豪日鉄二瀬を相手に延長10回まで無失点の快投をみせる[1]。11回に1点を失い力尽きたが、その後、北九州代表になった日鉄二瀬の補強選手として出場。2試合に登板し、同じ鳥栖高の一年先輩である井上守(のち阪急)をリリーフし好投[5]。計7イニングを無失点に抑え[1]、日鉄二瀬の監督を退任し中日二軍監督となった濃人渉の働きかけで中日が獲得に動き[4][6][7]、他にもいくつもの球団からスカウトされたが、最終的に「契約金はどの球団よりも高くする」と言われた巨人の誘いを断り、1961年に中日ドラゴンズへ入団[4][8]
現役時代

杉下茂のあとの背番号20を受け継ぎ、1年目の同年のオープン戦で28.1回を投げて自責点1(防御率0.31)の成績を残すと、一軍監督となっていた濃人から「今年はおまえを軸にしていく」と言い渡された[6]。1年目より伸びのある直球と大きく縦に落ちるカーブを武器にエースとして活躍し[9]、救援もこなした。同年はチーム試合数130の半分以上にあたる69試合に登板、うち先発は44試合に及んだ。35勝19敗、投球回数429.1回、奪三振310、防御率1.70を記録。沢村賞新人王を受賞した[10]長嶋茂雄には相性が悪く、奪三振なし、打率.448と打ち込まれた[11]。なお投球回数429回1/3は、1950年の2リーグ制施行以降、それまでの最高記録であった1957年の秋山登大洋)の406回を23回1/3超える日本プロ野球シーズン歴代最高記録であり、2020年シーズン終了時点でも破られていない(1リーグ制時代を含めると歴代13位)[12]

連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤(雨、雨、権藤、雨、権藤と続く)」という流行語も生まれた[4][13]が、この言葉が生まれたきっかけは、当時巨人の投手であった堀本律雄が「中日の投手は権藤しかおらんのか、つぶれてしまうぞ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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