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樋口 龍峡
ペンネーム樋口 暁雪
樋口 龍峡
誕生樋口 秀雄
1875年5月14日
筑摩県伊那郡飯田町
死没 (1929-06-06) 1929年6月6日(54歳没)
東京府日暮里町
墓地多磨霊園
職業評論家、政治家
国籍日本
最終学歴東京帝国大学文科大学哲学科
文学活動反自然主義文学
代表作『碧潮』(1906年)
『時代と文芸』(1909年)
『社会学小史』(1911年)
『近代思想の解剖』(1913年)
配偶者樋口 かつみ
親族甥・日夏耿之介(詩人・英文学者)
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大日本帝国の政治家樋口 秀雄ひぐち ひでお
生年月日1875年5月14日
出生地筑摩県伊那郡飯田町
没年月日 (1929-06-06) 1929年6月6日(54歳没)
死没地東京府日暮里町
出身校東京帝国大学文科大学哲学科 卒業
第一高等学校 卒業
松本中学校 卒業
前職評論家
所属政党(立憲同志会→)
(憲政会→)
(立憲民政党→)
憲政一新会
称号従五位
勲三等
配偶者樋口 かつみ
親族曾孫・浅尾慶一郎(参議院議員)
衆議院議員
選挙区(長野県郡部区
樋口 龍峡(ひぐち りゅうきょう、1875年5月14日 - 1929年6月6日)は、評論家、社会学者、政治家。本名は樋口秀雄、別号は暁雪。1909年に文芸革新会を興し、自然主義批判の文芸評論家として活躍した一方で、1915年には衆議院議員に当選し、政治家としても活動した。 筑摩県伊那郡飯田町(現長野県飯田市)の銀行家樋口与平・美寿の長男として生まれた。飯田尋常小学校、旧制松本中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科へと進学し、ここで社会学を専攻した。更に1900年には大学院へと進み、1901年に高山樗牛が発表した『美的生活を論ず』に対して、雑誌『太陽』に「美的生活論を読んで樗牛子に与ふ」を寄せて、道徳主義・悟性主義の立場から反論した。これを発端として樋口は1909年に後藤宙外や登張竹風、笹川臨風らとともに「文芸革新会」を結成し、反自然主義運動を展開した。また、1904年頃から明治大学で教鞭を執り、学内の清国留学生用の教育機関である経緯学号の主事などを務めた。 1911年、大隈重信主宰の雑誌『新日本』が創刊されると、樋口は永井柳太郎と共に編集にあたり、この頃から政界への興味を強め始めた。1914年に井上哲次郎の推薦により文学博士の候補者となったが、折からの井上らと上田萬年らの反目によって、結局は上田らの推す澤柳政太郎が当選したことから政界進出を決意し、1915年に行われた第12回衆議院議員総選挙において立憲同志会の推薦を得て出馬し、初当選を果たした。
概要