樊鍾秀
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樊鍾秀

プロフィール
出生:1888年光緒14年)
死去:1930年民国19年)5月25日
中華民国河南省許昌県
出身地: 河南省汝州宝豊県
職業:軍人
各種表記
繁体字:樊鍾秀
簡体字:樊?秀
?音:Fan Zh?ngxiu
ラテン字:Fan Chung-hsiu
和名表記:はん しょうしゅう
発音転記:ファン・ジョンシウ
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樊 鍾秀(はん しょうしゅう)は、中華民国の民主革命家、元匪賊、軍人。河南省の土着軍閥の豫軍の指揮官で、当初は北京政府直隷派などに属したが、後に孫文(孫中山)陣営に転じ、国民革命軍の一員となる。旧名は鐸。は醒民。
事跡

宝豊県大営夏荘(現在の河南省平頂山市石竜区)の下層知識人の家に生まれる。父の樊道隆は医者兼教師であった。4人兄弟の次男で、叔父2人と従兄弟7人と暮らしていた[1]。幼い頃は旧学を学んでいたが、13歳で登封嵩山少林寺に赴き、拳術・棒術を習得する。のち革命家となる徐万年・李亜東(中国語版)も同門であった[1]

1911年宣統3年)、武昌蜂起が起こると河南省でも革命派が呼応していた。樊鍾秀も革命派に参加、河南同盟会に協力する拉杆(河南省の方言で匪賊の事)の王天縦(中国語版)に従い信陽で交戦する[2]。のち湖南新軍兵士として挙兵していた徐万年の檄に応じて武漢に赴き、漢陽監獄に収容されていた李亜東を救出した[2]1912年民国元年)2月、李亜東が豫南民軍を組織するとそれに加わり、馬雲卿の左翼先遣軍副司令に任ぜられ、王天縦と協力して唐河・鄭州・新野・南陽を攻める[2]。しかし1913年民国2年)、河南都督張鎮芳の圧力で民軍が解散されると、樊鍾秀も張鎮芳に指名手配されたため、地元に帰郷するが、拉杆の略奪に遭い、陝西省宜川県賀家溝の黄竜山に逃れて開墾に勤しんだ。しかし翌年春、杆首(匪賊の頭目)の「黄大爺」が樊鍾秀の妹を無理矢理妻に娶ろうとした[3]。憤慨した樊鍾秀は同郷の仲間を集めると、夜に黄大爺の山塞に忍び込み、寝ている黄大爺を短刀で殺害して新たな杆首を名乗り、その配下100名を従わせた[4][3]。続いて、澄城県馮原鎮(中国語版)と清明山の民団(自警団)の団長を殺害し、団員を従わせた[5]。元々知識人の生まれである樊鍾秀は、匪賊の集まりである彼らの、農民を守り地主や役人に抵抗する自警団への変革を志向し、恐喝や強姦の禁止、農民の保護、配分の平等などを打ち出したとされる[3]。こうした樊鍾秀の方針は農民の支持を得、急速に勢力を拡大した[3]
秦軍から陝西靖国軍、毅軍へ

1915年(民国4年)、陝西省の陳樹藩の第3混成旅の営長を務めていた閻鳳誥の誘いで、樊鍾秀は配下とともに軍に加入し、陝西将軍陸建章の衛隊連に改編され、連長、のち営長に任ぜられる[1]。その一方で、革命党員の恵又光(中国語版)と反袁逐陸の計画を進め[5]、のちに彼が決起に失敗すると匿う。1916年(民国5年)、陳樹藩が陝西督軍になると混成第2旅(長:曾継賢)騎兵連長[6]、営長に任ぜられ、西安南部に駐屯。

1918年(民国7年)1月、于右任・郭堅(中国語版)・胡景翼らが陝西靖国軍を組織すると、陳樹藩より部隊1個営を率いて西安の鎮圧を命じられる。樊鍾秀は遅遅と鎮圧に向かうふりをして、辛亥革命の同志であった張?(中国語版)の協力で潼関県商県?南県藍田県??県で密かに2000人の兵を集め[1]、2月、陝西靖国軍に参加。胡景翼軍の営長の張義安の部隊と連携して陳樹藩を包囲するも、反撃にあい失敗。張義安は戦死し、樊鍾秀は東三兆鎮に撤退した[7]。3月には河南省との省境にある潼関県で陳樹藩の1個旅を撃破し、数百の銃を鹵獲する[7]。その後、秦嶺を超えて商県・?南県で部隊の休息と整編を行った[7]。6月には第2路司令に任ぜられた。陳樹藩を?上で待ち伏せし、劉鎮華と零口で交戦[7]。臨潼・渭南を転戦し、河南省からの両軍の補給線を絶った[7]。しかし、胡景翼が捕虜となると陝西靖国軍は瓦解し、??県で53日間籠城していたが、結局翌年3月、陝西省駐屯中の摂陝奉軍司令(奉天派許蘭洲に降り、第1支隊司令に任ぜられている[7]

1920年(民国9年)5月、安徽派と直隷派との緊張が高まると、樊鍾秀は許蘭洲の部隊に従って河南に戻る[7]。6月より許蘭洲の河南撤退に伴い、樊鍾秀の部隊は直隷派に与する毅軍の河南都督趙?の指揮下に入り、河南陸軍暫編第1師(長:成慎)第2旅(長:林起鵬)の第4団団長[4][6]。西部の?郷・霊宝・陝州一帯に駐屯し、対匪賊の治安戦に従事[4][7]。暫編第1師は河南新軍第29混成協から発展した部隊で、一時2個旅に解体されたものを再合併したものであった。しかし毅軍の勢力を優先したい趙?は1921年(民国10年)1月14日、河南陸軍暫編第1師を解散[8]、自身の弟の趙傑を部隊長として再編した。4月16日、趙?の圧力に耐えかねた成慎が反乱を起こすと、鎮圧側に立ち、武安・林県に展開。同月、第5混成旅旅長に任ぜられる[6]。7月、湘鄂戦争が起こると蕭耀南の第25師を掩護するため湖南省北部へ派遣され、同じ直隷派張福来率いる第24師配下として趙恒タの湖南軍を威寧・岳州で撃破する[9]。戦後、河南省東部各県に駐屯したが[9]、趙?失脚後の1922年(民国11年)7月、毅軍は直隷派によって再編され、常徳盛(徳勝・得勝とも)が河南陸軍暫編第1師師長となるとその配下となる。
孫文陣営への参加

5月13日、常徳盛の暫編第1師は呉佩孚の命令により江西督軍に新たに着任する蔡成勲の護衛として同省南部に派遣されることとなり、高鳳梧とともにそれに従った[10][11]。しかし、同年6月に魯山県で白朗残党の老洋人(張慶)が匪賊や民衆2万人を扇動して「河南自治軍」を称し、魯山起義(中国語版)を起こすと河南省に戻り、豫西剿匪司令として全省剿匪司令の?雲鶚とともに鎮圧を担当したが、樊鍾秀の腹心の任応岐も河南自治軍に参加していたほか、?雲鶚の1個団が壊滅させられるなど苦戦を強いられていた[4]。樊鍾秀は老洋人と同郷であったことから、呉佩孚より交渉を任され、結果人質解放と正規軍としての引き込みに成功した[4]。樊鍾秀の部隊は陝西靖国軍では2個支隊3000人だったが、この時5個遊撃支隊、計5000人の兵馬にまでなっていた[1]。8月27日、陸軍少将に昇進する[12]。12月、第2混成団団長[6]


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