槙野 智章
日本代表時代(2018年)
名前
愛称マキ、マッキー、トンジ
カタカナマキノ トモアキ
ラテン文字MAKINO Tomoaki
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1987-05-11) 1987年5月11日(36歳)
出身地広島県広島市西区
身長182cm
体重77kg
選手情報
ポジションDF / FW
利き足右足
ユース
1994-1999井口明神FC(広島市立草津小学校)
2000-2002サンフレッチェ広島ジュニアユース(広島市立庚午中学校)
2003-2005サンフレッチェ広島ユース(広島県立吉田高等学校)
クラブ1
年クラブ出場(得点)
2006-2010 サンフレッチェ広島 127 (20)
2010-2012 1.FCケルン 8 (0)
2012→ 浦和レッズ(loan) 33 (6)
2013-2021 浦和レッズ 280 (26)
2022 ヴィッセル神戸 16 (1)
通算464 (53)
代表歴2
2005-2007 日本U-18/19/20
2009-2019 日本38 (4)
監督歴
2023 品川CCセカンド
2024- 品川CC
1. 国内リーグ戦に限る。2021年12月22日現在。
2. 2019年1月17日現在。
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槙野 智章(まきの ともあき、1987年5月11日 - )は、広島県広島市西区出身[1]の元プロサッカー選手、サッカー指導者、解説者、タレント。現役時代のポジションはディフェンダー、フォワードで、元日本代表。妻は女優の高梨臨。 サッカーファンでサッカーをプレイした父[2] と、すでにサッカーを始めていた2人の兄[注 1]の影響で小学1年生からサッカーを始めた[3]。草津小学校のサッカー少年団員は4年生以上であるため、隣町井口の井口明神小学校のサッカークラブに入団し[3]、小学6年次にFWとしてフジパンカップ広島県大会で3位入賞した。 2000年にサンフレッチェ広島ジュニアユースに入団。同期には森重真人、左山晋平などがいる。当初はFWのポジションでプレーし、森重や平繁龍一と2トップを組んでいたが、トップ下、サイド、ボランチなど様々なポジションを経て、中学3年次にコーチの月岡利明によりセンターバックにコンバートされた[3]。 2003年にユースチームに昇格。ユース時代からの同期には、木原正和、福本尚純らがいる。2年次からセンターバックとしてレギュラーを獲得し、ユースレベルでの3大大会の全てで決勝に進出し2冠達成に貢献した。一学年上の藤井大輔と組んだセンターバックは森山佳郎監督から「同世代には絶対に破れない」と賞賛された。3年次には広島ユースおよびおかやま国体における広島県選抜の主将を務めた。各年代別代表にも招集されここでも主将を務め中心選手として活躍した[3][4]。 2006年、橋内優也、趙佑鎮らと共にサンフレッチェ広島トップチームに昇格。 2007年8月にダリオ・ダバツおよび盛田剛平が負傷したため先発メンバーに抜擢された。以降は、レギュラーとして定着した[5]。J2降格が決まった際、元日本代表FW佐藤寿人と広島残留を表明する。 流動的に動いた2008年は、元日本代表SB駒野友一の移籍で空いた背番号5をつけて、出場停止1試合を除く全試合に出場する。その結果、悲願のJ1復帰に貢献した。 2009年は初めてJ1で一年間レギュラーとして出場し続け、センターバックではリーグ最多の8得点を挙げた。 2010年はリーグ全34試合に出場、うち33試合ではフル出場し、初のJリーグベストイレブンに選出。全試合に出場しながら警告、退場が1つもなく、フェアプレー個人賞を受賞した。 2010年12月、ドイツへ渡った。欧州挑戦を目指し、ボルシア・ドルトムントとホッフェンハイムの練習に参加した。しかし、独誌キッカーの回答としては、「1対1の弱さがあり、右サイドバック向きとして獲得は現実的ではない」と評された。欧州レベルでは、センターバックとしては評価されなかった。結局、正式契約には至らず、槙野は日本へ帰国する。しかし同年12月30日、当時ケルンのスポーツディレクターを務めていたフォルカー・フィンケの誘いでドイツ・ブンデスリーガの1.FCケルンへ完全移籍[6][7]。契約期間は2013年6月30日まで。元代理人は長谷部誠、香川真司らと同じトーマス・クロートであった。 2011年1月29日、FCザンクトパウリ戦でブンデスリーガデビュー。ケルンは敗れたが、センターバックとしてフル出場。その後は、出場機会に恵まれず、移籍1年目の出場は5試合にとどまった。翌2011-12シーズンも3試合の出場のみとなり、レギオナルリーガのケルンIIの試合にも出場した。 2012年1月11日、復活を目指して、ミハイロ・ペトロヴィッチが監督に就任した浦和レッズへの1年間の期限付き移籍が決定した[8][注 2]。浦和加入後、ペトロヴィッチ監督の愛弟子としてチームを牽引。6得点を記録し、チームの2008年以来のACL出場に貢献。自らが音頭を取り、浦和サポーターが勝利の凱歌として歌う『We are Diamonds』をホーム開催試合に限り、メンバー入り選手全員もサポーターと共に歌うなど、持ち前の明るいキャラクターでチームとサポーターの距離を縮める施策を実行した。12月4日、2013年シーズンより浦和への完全移籍加入が発表された[11]。背番号を5番に変更し、この年はリーグ戦34試合全試合に出場した。 2015年9月8日、サウジアラビア1部の強豪・アル・ナスルFCから約5億円の年俸での獲得オファーを受けたが、断り浦和に残留した[12]。
経歴
プロ入り前
サンフレッチェ広島時代
ケルン時代
浦和レッズ時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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