槙原寛己
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槙原 寛己MBSラジオ『亀山つとむのスポーツマンデー!』公開録音にて
(2018年12月22日阪神競馬場)
基本情報
国籍 日本
出身地愛知県半田市
生年月日 (1963-08-11) 1963年8月11日(60歳)
身長
体重187 cm
94 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1981年 ドラフト1位
初出場1983年4月16日
最終出場2001年9月30日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


愛知県立大府高等学校

読売ジャイアンツ (1982 - 2001)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

槙原 寛己
YouTube
チャンネル

ミスターパーフェクト槙原

活動期間2021年2月25日 -
ジャンル野球
登録者数約20.8万人
総再生回数88,736,957回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2024年1月2日時点。
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槙原 寛己(まきはら ひろみ、1963年8月11日 - )は、愛知県半田市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者野球評論家タレントYouTuber

斎藤雅樹桑田真澄とともに1990年代読売ジャイアンツを支えた先発3本柱の一人。愛称は「マッキー」「マキさん」「ミスター・パーフェクト」など。所属事務所はノースプロダクションオールラウンド

1994年5月18日、史上15人目、平成唯一の完全試合福岡ドームで達成している。

平成30年10月より、オフィスコンサルティング株式会社の代表取締役をしている[1]
経歴
プロ入りまで

大府高校在学時から同期の工藤公康愛工大名電高校西武6位指名)・浜田一夫愛知高等学校中日2位指名)とともに愛知三羽烏と呼ばれ[2]剛速球投手として有名だった。1981年第53回選抜高等学校野球大会に出場、ストレートが当時の甲子園最速記録となる147km/hを記録する。

1981年11月25日のドラフト会議にて読売ジャイアンツから1位指名を受け、入団。
現役時代
現役前半

入団1年目は二軍での体作りに専念したため登板機会が無かった。150km/hを超える速球派投手として球団から期待される。秋の阪神とのオープン戦で好投し、自信をつけた[3]

1983年、春のグアムキャンプの一軍メンバーに選抜される。ここで監督の藤田元司から大きく曲がるカーブを教わり、速球を生かせるようになった[4]。キャンプから若手の成長株として評価され、一軍に初昇格して活躍した同期生の吉村禎章、1歳年上の駒田徳広らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた[3]

開幕一軍入りを果たすと、4月16日の対阪神2回戦(甲子園球場)に一軍初登板で初先発すると、延長10回を5安打9奪三振、1-0で完封という鮮烈なプロデビューを飾った[5]。4月24日の対ヤクルト戦に先発し、プロ入り2試合連続で完投勝利した。先発ローテーション入りを果たし、12勝1セーブ(9敗)の成績を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献。記者投票で213票、それ以外は「該当者なし」1票、「無効」1票という圧倒的な票を集め、新人王に選出された[6]

同年の西武ライオンズとの日本シリーズでも第3戦、第6戦に先発登板した。後楽園球場での第3戦は、2-1とリードした6回表にテリー・ウィットフィールドに1号3ランを打たれ、5回1/3を4失点。西武球場での第6戦は、1回表原辰徳の適時打で1-0とリードしていたが、5回裏に石毛宏典に三塁打、6回大田卓司に1号本塁打を打たれて1-2と逆転され、6回2失点。いずれも勝ち負けはつかなった。

1984年、ストレートの最高球速がボール球ながら155km/hと当時の日本最速スピードを記録。翌年に西武ライオンズに入団した郭泰源が156km/hを出し更新されるが、1984年に記録した155km/hは終速表示であったため「日本人で最初に160km/hを記録するのは槙原では」とさえ言われていた[7]。同年の日米野球では、槙原はボルチモア・オリオールズの主砲エディ・マレーと対決し、マレーに超特大の場外本塁打を打たれたが、後に自分が完璧に投げて、それでも打たれた本塁打だったと述懐している。

1985年4月17日の対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)で佐野元国とバッテリーを組み、7回裏にクリーンナップであるランディ・バース掛布雅之岡田彰布に3者連続でバックスクリーンへの本塁打バックスクリーン3連発)を喫した[8]。それから2か月後の6月28日の同カード13回戦に先発し、チームは球団記録となる1試合8本塁打を記録、自身も球団通算5000号本塁打となる現役生活で唯一の本塁打を打ち[9]、大量14点の援護点もあり1失点で完投勝利した。ところが、降雨ノーゲームとなった7月14日の対阪神16回戦の1回表にランディ・バースの打球が右足のスネに当たり、撥ね返った打球を捕りにいくときに転んで、左股関節骨折の重傷を負い[10][11]、その後のシーズンを棒に振った。

1986年、イースタン・リーグで調整登板を重ね、5試合に登板して計33回を投げ、36奪三振、6失点[12]、また2日の金沢での西武戦で完封するなど「怪我の後遺症がなくなった」と判断されたため、5月4日、10か月ぶりに一軍登録された[12]。5月11日の対広島6回戦に先発して前年7月14日以来300日ぶりに復帰登板したが、3回2/3、6失点で降板した[13]。後半戦は、8月に4勝1敗、3完封、防御率0.63で月間MVPを受賞するなど[14]、投手陣の柱としてチームを支え、広島東洋カープとの優勝争いの原動力となっていた。しかし、10月7日の対ヤクルト26回戦ではマーク・ブロハードに逆転本塁打を打たれ、広島が首位に浮上し巨人は2位に転落する痛恨の敗戦となり[15][16]、12日に広島がリーグ優勝を決め、巨人は広島と僅差の2位に終わった。現役引退時に、「一番悔しかった」試合として阪神戦での3連続被弾ではなく、この試合を挙げた。

1987年は、新人王を獲得した1983年以来4年ぶりに2桁となる10勝(6敗)を挙げ[17]、チームの4年ぶりのリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第4戦に先発し、3安打11奪三振で完封し、シリーズ初勝利を挙げた[18]。シリーズは2勝4敗で西武に敗れたものの、優秀選手賞を受賞した。同年から背番号が入団時から付けていた「54」から「17」に変更され、引退まで着用した。

1988年は、プロ入り後初めて年間200イニングを突破した(208回1/3)。また、当時はリーグ連盟表彰の対象ではなかったが、リーグ最多の187奪三振を記録した。

1989年は、開幕から先発とともに登板の合間にはリリーフも兼ねるなど、オールスターゲーム前までに12勝3敗4セーブ、防御率1.75という活躍を見せた。しかし、後半戦の開始となった7月29日の対広島15回戦で、2回裏一死後、植田幸弘へ3球目を投げた後に軸足の右膝をひねったため降板[19]。31日、東京・慈恵医大病院での精密検査で右膝内側半月板損傷と判明し、治療のため残りのシーズンを棒に振った[20]。チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たし、槙原もリハビリを終えて近鉄バファローズとの日本シリーズに出場有資格選手入りした[21]。10月24日の第3戦に3番手で登板し、約3か月ぶりに実戦登板を果たした[22]

1990年も、前年の怪我が尾を引いていた。4月に2勝したものの、その後は打ち込まれる試合が続き、5月末に不調による再調整と足に打球を受けた治療を理由に二軍落ちした。夏に復帰し、それから調子を上げたが、この年の公式戦最終戦の10月10日の対広島26回戦に先発するも敗戦投手となって9勝に終わり[23]、シーズン序盤の不調の影響で4年ぶりに規定投球回に到達できなかった。西武との日本シリーズでは、終盤の好調さを買われ第1戦の先発に起用されたが、その初回に西武のオレステス・デストラーデに、カウント0-3からの4球目が「ボール気味に投げたつもりが、ど真ん中」となって1号3点本塁打を打たれた[24]。西武は無傷の4連勝で日本一となり、このデストラーデの本塁打は「シリーズの流れを決めた本塁打」と評された[25]

1991年、自身初の開幕投手に指名されたが、7回途中2失点での降板で勝敗は付かなかった。7月19日の対中日14回戦に先発し、7回まで8-0と大量の援護点を貰いながら、その裏1失点、8回に一死満塁のピンチに二点適時打を打たれた所で降板させられる[26]。しかし、救援した木田優も失点を重ね中村武志に代打満塁本塁打を打たれて同点、そして延長10回にまたも中村にサヨナラ本塁打を打たれて、球団史上初の8点差からの逆転負けを喫した[26]

この年のオールスターゲーム(2試合制)では、第1戦で先発したため、第2戦では登板予定がなかった。しかし、第1戦は東京ドーム(日本ハムの本拠地だったためセ・リーグはビジター)で開催だったため、いつもの癖で第2戦の広島市民球場の試合はビジターのユニフォームと思い、槙原はホーム用のユニフォームをクリーニングに出してしまっていた。もっとも、登板予定はなかったために、ユニフォームと同じデザインのTシャツでベンチにいて事なきを得るはずだった。しかし、試合が延長戦に突入し、他チームの選手を無理に引っ張ることのできなかった全セ監督・藤田元司は、Tシャツのまま槙原を登板させることとなった。これを最後にNPBのオールスターは、延長戦なし・9回打ち切りとなっている。

1992年は、二年連続開幕投手となり完投勝利を挙げる等開幕から順調に勝ち星を伸ばし、前半戦だけで10勝(5敗)を挙げ、3年ぶりの2桁勝利を記録するが、オールスター後は2勝8敗と調子を落とし、自己最多タイの12勝を挙げる一方で、負け数が13で2年連続で負け越してしまう[27]
現役後半

1993年には斎藤、桑田が軒並み調子を落とす中で孤軍奮闘し、自己最高の13勝、防御率2.28の好成績でチーム最多勝、FAの権利を取得した。シーズンオフになり槙原はいくつかの球団から誘いを受けたが、球団フロントが慰留などの態度を一切示さないことに不信感を持ち[15]FA宣言をする。その後、当時監督を務めていた長嶋茂雄が槙原の自宅を訪問、説得を受けて巨人に残留を決めた。この際に長嶋が槙原の背番号と同数の17本のバラの花束を持ってきた逸話が残されているが、実際は20本だったという[28]

1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で平成唯一の完全試合を達成[注 1][注 2][注 3]。詳細は「槙原寛己の完全試合」を参照

平成唯一および20世紀最後の達成者になった。現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。完全試合達成は引退会見の際に記者からの質問で「一番思い出に残っている試合はどれですか?」と聞かれた際、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」と答えた程で、本人にとってプロ野球人生の中で最高の思い出となっている。前々日の門限破りで外出禁止1か月を言い渡されたため、好投してこれを解こうと奮起した結果であると大久保博元と「おしゃれカンケイ」に出演した際に話している[29]。ちなみに同試合で広島の両主砲、江藤智前田智徳はともに欠場であった[注 4]

同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦と優勝決定の第6戦で完投勝利、2勝0敗・防御率0.50と、今までの勝負弱いイメージを払拭する活躍でシリーズMVPも獲得した。

1995年オフにレーシック手術を受けたが、最初の手術で左目に痛みが出て物が二重に見えるようになってしまい、翌シーズン直前に新しいコンタクトレンズを用意し、シーズン終了後再手術をすることとなった[30]

1996年、6月19日のナゴヤ球場での中日戦で音重鎮山崎武司大豊泰昭に、3連続本塁打をまたも打たれた。7月、胸の痛みを訴えて入院。肺気胸と診断された。その前日に球団トレーナーが行った鍼治療で電気針を深く打ちすぎたのが原因で、槙原は鍼が原因との自覚を持ちながら、トレーナーを庇うため表沙汰にはしなかったが、球団側が槙原の名誉のために事実を公表。治療を行ったトレーナーを減俸にするなどの処分を行い、槙原には公傷を認めた。槙原は「起きたことは仕方がないので、早くリハビリをして復帰の準備をしたい」などとコメントした。

1997年、チームが開幕から低迷する中チーム最多タイの12勝を挙げるも自己ワーストの被本塁打を記録した。

1998年、開幕から出遅れ4月半ばにシーズン初登板となり5月の頭にシーズン初勝利が通算150勝目の記録となった。


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