槍騎兵
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槍騎兵(そうきへい)はランス(騎槍)を装備した騎兵
概要

槍を装備する騎兵は世界中に存在するが一般にヨーロッパの槍騎兵をさすことが多い。英語ではLancer(ランサー)、フランス語ではLancier(ランシエ)、イタリア語ではLanciere(ランチエーレ)、ドイツ語ではLanzierer(ランツィーラー)やUhlan または Ulan(ウーラン)、ポーランド語ではU?an(ウワン)と呼ばれる兵科が槍騎兵にあたる。
歴史

ヨーロッパでは、古代から中世にかけて槍は騎兵の主装備として使用されてきた[1]。槍を装備した騎兵の突撃は、歩兵にとって大きな脅威であった[1]。中世中期から中世後半のヨーロッパではランスを主要な武器とする重騎兵は重装備の騎士が含まれていたが、重騎兵は全員が騎士という訳ではなく、多くは職業軍人で、騎士に仕える者も少なくなかった[2]。中国にもランスに相当する兵器として槊(さく)もしくは馬?と呼ばれるものがあり、末の単雄信がその使い手として知られる[3]

歩兵の復興と騎兵の凋落は銃器の導入と発達で説明されることが多かったが、これは誤った俗説であり、それどころか銃器は歩兵に対し相対的優位を保とうとする騎兵に導入され一定の効果すらあげた[4]。その背景にあったのはそもそも中世においてすら騎士(重装甲騎兵)は無敵ではなかったという事実であり、中世が進むにつれて騎士の役割が騎兵槍を携えての乗馬襲撃に特化していったことも事実であり、敵の隊列を崩す公算がもっとも見込めたのが騎乗した騎士の突撃であったこととそのために中世後期に至って軍隊がしばしば全ての中心に彼らを据えたことも事実であるが、既に騎士(重装甲騎兵)を運用することが叶わなかった中世後期のヨーロッパーの諸地域が槍やハルバードを代表とする長柄武器で武装した歩兵に訓練を施して密集隊形や防御隊形を組ませ、騎士による乗馬襲撃を撃退する能力を獲得していた[4]。一方でブリテン諸島の人々はこの密集歩兵を破るという視点から戦訓を理解し、彼らはスコットランド人との諸戦闘から、騎兵が規律ある歩兵隊を打ち破るためには、他の兵器、特に投射兵器で武装した兵種の支援が必要であることを学び、独自の戦術を発展させた結果生まれたのは弓兵と騎兵(時に下馬して密集装甲歩兵となり、時に騎乗して乗馬襲撃を敢行した)の柔軟性のある共同であり、百年戦争の戦場におけるイングランド軍の勝利の根幹となった[4]

つまり、中世における騎士(重装甲騎兵)の絶対的な戦場での優位というものは誤りであるが、ただし、これを過度にとらえることも、また誤りであり、中世末期の15世紀はむしろ板金鎧の技術が最終的に完成した時期であり、重装甲騎兵の力が最も高まり、騎兵が重要視された時代であったともいえる。当時の軍隊の比率を見ると、騎兵と歩兵の比率が同数かまたは、騎兵の方が多数であった事例に事欠かないが、重装甲騎兵の強化は「槍組」と呼ばれる単位の強化であり、増強された「槍組」は重装甲騎兵1名とそれを支援する2?5名で構成され、フランス常備軍の礎とされるシャルル7世の勅令軍においては、重装甲騎兵1名、従騎兵1名と騎乗弓兵2名、従僕と小姓各1名からなる計6名(非戦闘員3名を含む)の騎乗兵とされた。騎乗弓兵は下馬して戦うことが多く、弓ではなく、特にイタリアでは弩兵であることもあり、すなわち、「槍組」とは衝撃力を用いる重装甲騎兵を軍の中核としつつ、支援兵種である軽騎兵と弓兵を組み合わせた戦闘単位であり、これを強化することは、銃器の大規模導入以前に、ヨーロッパは再び諸兵科協同をより重視する方向にあったことを意味し、そして銃器はさらに進展していくこの変容に対応するために、歩兵だけではなく、16世紀初頭以降は騎兵にも用いられていくことになる[4]

16世紀初頭までに騎兵は大まかに、重装甲騎兵と、軽装な鎧を纏う軽装甲騎兵、騎乗弓兵または銃兵、そして東欧やアジア(イスラム)の影響を受けた軽騎兵に分類されており、1548年の著書でデュ・ブレーは騎兵種として、重装甲騎兵、軽装甲騎兵、軽騎兵、騎乗火縄銃兵の4つを挙げている[4]

このような騎兵たちが主役となったのが15世紀末から16世紀前半にかけてのイタリア戦争であり、この戦争では騎兵に限らず、様々な兵種で新しい戦い方が試されており、中でも銃器はこの時までに、アルケブス銃(小口径で軽量な火縄銃)と呼ばれる肩射ち式の、現代でもなじみのある小銃の形をとるようになっていた。重装甲騎兵も長槍兵も不足していたスペイン軍は、1503年のチェニョーラの戦いにおいて、未だに発展途上であるアルケブス銃で武装した歩兵でも野戦陣地を組み合わせれば、重装甲騎兵を破れることを証明した。これは1世紀前に長い訓練と一定以上の体格を必要とした長弓兵が成し遂げたことをより簡単に実現できるようになったことを意味し、一つの画期と見なされているが、この戦術そのものには真新しい点はほとんどなく、長弓兵の運用例に加え、半世紀も前から先進的な地域では、銃器を陣地と組み合わせて用いていた。列強の戦いで実証されたことは趨勢を決定づける追い風となり、加えて、既に有効性が確認されていた長槍兵を野戦陣地の代わりに用いるなどの応用が、その後には残されていた[4]。これに対する重装甲騎兵側の反応は、当初は装甲の強化として表れた。初期のアルケブス銃の威力は弱く、鎧の厚みを増すことは15世紀以来に技術的に完成されつつあった板金鎧の能力から考えても現実的な回答ではあったのだが、銃器の威力が増すにつれ、鎧は実用に支障が出るほどに重くなり、要求される軍馬の質や換え馬も供給能力の限界に達し、彼らは巨大になり、ゆっくりと動く標的となりつつあり、加えて戦略状況の変化が重装甲騎兵にとって不利に働いた。大砲の発達は、15世紀末期から16世紀前半にかけて従来の城郭を無力化し、野戦の発生率を押し上げ、16世紀前半までに野戦で力を発揮する重装甲騎兵の重要性はむしろ高まっており、長柄武器を手にした密集歩兵隊は確かに重装甲騎兵の白兵乗馬襲撃を撃退できたが、別の手段により、歩兵の隊列を乱せれば、重装甲騎兵による打撃は圧倒的ではあった。しかし、1450年頃から発達し続けていた稜堡式築城術が大砲に発達する形で普及し始めると、攻城戦における攻撃側と防御側の有利、不利は再び防御側優位へと傾き、この新しい戦略環境下で騎兵に最も求められた能力は、輜重の護衛や敵輜重隊の襲撃、現地徴発といった支援任務のための機動性であった。威力を増す銃器に対応して、装甲重量を増していた重装甲騎兵は、鈍重になりつつあり、この任務には全く不適であり、こうした理由から重装甲騎兵は、より機動性のある騎兵に席を譲るようになっていったが、野戦における重装甲騎兵の力は、かつてよりは衰えたとはいっても、未だに侮りがたかったために16世紀中葉においては重装甲騎兵が完全に消え去りはしなかった[4]

しかし、機動性を重視する風潮は重装甲化とは反対の軽装化という思想を確実に強めたが、これは鎧の強度を向上させるよりも、歩兵隊を攻撃する速度を向上させて好機をつかみ取ることを、あるいは敵対する騎兵隊を機動性で上回ることを目的とする考えであり、また、費用負担においても絶えない戦乱で疲弊した貴族にとって重装甲騎兵に求められる装備や軍馬の準備は厳しすぎるために、彼らは結果として軽装甲騎兵にならざるを得ず、これが軽装甲騎兵の増加傾向を後押しした[4]

対銃器だけで言えば、簡素化された甲冑で身を守り、軽量化された騎兵槍で武装した騎兵は、複数回の射撃に耐えなくとも、素早く歩兵隊に接近して攻撃することが可能なはずであり、必要な部分だけに鎧を限定することにより、まだ板金の厚みを増すことも可能だと考えられ、16世紀後半の軽装甲騎兵は、板金製の鎧を胴と両腕、太ももの前面に限ることで重量削減をした七分甲冑や、さらに不要部分を削り、ほぼ上半身だけとなった半甲冑を身に着け、機動力と防御力の両立を目指しており、当時のイングランド軍では彼らのことを「軽装槍騎兵」と呼ぶことが多いが、単に「槍騎兵」と呼ぶこともしばしばあった[4]

こうして1570年代までに軽装甲騎兵はより迅速な攻撃が可能な重騎兵としてその立場を確立しており、加えて軽装化は彼らに持久力と一定の汎用性を与えたのだが、軽装甲騎兵の隆盛は一瞬であった、既にこの時には彼らの立場を奪い取る短銃騎兵が戦場に存在していたからである[4]

一方、騎乗火縄銃兵や軽騎兵は、攻城戦主体の戦略環境下で大いに役立つ騎兵種であり、騎乗弓(弩)兵は中世期の戦争の一要素であり、銃器の発達に従い、彼らが武器を銃器に持ち替えたのは自然な流れであり、また、銃器を騎兵が採用し始めた時期は意外に早く、1460年には既に騎士が手銃を振り回す姿が記録に柄が描かれており、少なくとも1496年までに騎乗して小銃を扱う部隊がヨーロッパの戦場に登場した[4]

軽騎兵においても中世からの伝統があり、フランス勅令軍所属の騎乗弓兵「デルシェ」は次第に弓を捨て、軽い槍を用いての乗馬戦闘を主体とする軽騎兵となり、

イベリア半島においてはアラブ風の軽騎兵「ヒネーテ」が、レコンキスタにおいて大いに活躍し、スペイン軍軽騎兵の主力となるだけではなく、諸国における軽騎兵隊の模範ともなり、加えて16世紀にオスマン帝国の西進が一時期の勢いを失うと、バルカン半島を起源とする軽騎兵もヨーロッパに流入し始めた[4]

全体的な重装甲騎兵の衰退の中で、武器の変化も始まり、つまりは重騎兵も銃器を採用して攻撃力を増すという思想であり、既に1300年代初頭から、長柄武器で武装した歩兵の密集隊形を破るために、弓兵を進出させ、その射撃により歩兵の隊列に関隙を生み、そして重装甲騎兵がこの隊列を破るという戦術は一般化されてきていた。ここから、重騎兵自身が飛び道具を持つという概念が生まれた。ホイールロック式の短銃が重騎兵に与えた影響は大きく、特に1540年代以降において短銃を手にしたドイツ式騎兵「レイター」が活躍したことは重騎兵の武装としての短銃の地位を確実なものとした。ドイツのシュマルカルデン戦争やフランスのユグノー戦争において、ドイツ人たちは騎兵と短銃の組み合わせが極めて有効であることを証明し、重装甲騎兵も軽装甲騎兵も騎乗火縄銃兵も短銃を前にして屈服を余儀なくされ、対歩兵戦においても「レイター」は能力を発揮した。既に騎乗からのアルケブス銃による射撃が長柄武器で武装した密集歩兵隊に有効であることは1547年のピンキー・クルーの戦いでスコットランド人歩兵隊を壊滅させて証明されていたが、1562年のドルーの戦いでは銃兵や友軍騎兵隊の援護を欠いたスイス槍兵方陣に対し、「レイター」の継続的な短銃射撃が大いに威力を発揮し、その名をヨーロッパに轟かせた。フランスで発達したドイツ生まれの短銃騎兵は次なるヨーロッパの戦場である低地諸国地方、そして再びドイツへと伝播することになり、短銃は騎兵槍を西ヨーロッパの戦場からほとんど葬り去った。その転換点として有名なのが1597年、オラニエ公マウリッツによる軍制改革の一環として行われた騎兵槍の廃止であり、この時、彼は「レイター」と同じく短銃を主武器とした「胸甲騎兵」と呼ばれる騎兵種をオランダ軍に導入した。マウリッツは西ヨーロッパにおける兵術の師範的な人物となっていたために、以降において、当時の西ヨーロッパの資料は短銃騎兵のことを胸甲騎兵と呼称するようになる[4]

17世紀初頭の西ヨーロッパの騎兵は胸甲騎兵、槍騎兵、騎銃騎兵(ハークバス銃騎兵およびカービン銃騎兵)、竜騎兵であり、重装甲騎兵は姿を消し、軽装甲騎兵は、多くの場合は槍騎兵と呼称されており、騎乗火縄銃兵は、乗馬戦闘を主な任務とした騎銃騎兵と下馬戦闘が主な任務の竜騎兵に分かれ、当時の竜騎兵は18世紀とは異なり、依然として騎乗歩兵であり、歩兵用のマスケット銃だけではなく、一部では長槍(パイク)を携帯することすらあった。第5の騎兵種として軽騎兵も存在していたとはいえ、既に三十年戦争(1618年?1648年)も半ばを過ぎた時代において、軽騎兵はほぼ絶滅していた。16世紀後半のユグノー戦争に参戦した将軍ドゥ・ラ・ヌーいわく、短銃による銃弾の殺傷力は騎兵槍よりもはるかに高く、加えて複数所持により複数回の攻撃が可能となり、取扱性に優れていることから乱戦においても有効であるとのことだが、これが全員一致の見解であるわけではなかった。例えばヨーロッパで最初の軍大学で校長を勤めたヴァルハウゼンが1616年に騎兵槍の利点を主張し、これを捨て去るのは誤りだと指摘しており、同時期に別の系譜に連なる槍騎兵が隆盛していたポーランドの事例が示すとおりに騎兵槍が短銃に単純に劣ると示すのは難しいことであり、また、積極的に短銃を活用しようとしたオランダの敵であるスペインが軽装槍騎兵を最後まで維持した国家の一つでもあり、すなわち、西ヨーロッパにおける槍騎兵の消滅は短銃に代表される戦術や技術だけの問題ではなく、16世紀に重装甲騎兵が消滅したのと同じくもっと大きな背景で語られるべき問題でもある[4]


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