榴岡公園
Tsutsujigaoka Park
天皇御在位50周年記念広場
分類都市公園 > 基幹公園 > 都市基幹公園 > 総合公園
所在地 日本宮城県仙台市宮城野区榴ヶ岡、五輪1丁目、宮城野1丁目
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度15分38.2秒 東経140度53分49.1秒 / 北緯38.260611度 東経140.896972度 / 38.260611; 140.896972
榴岡公園(つつじがおかこうえん)は、宮城県仙台市宮城野区の丘陵地[2]にある都市公園。
公園周辺は古くから榴ヶ岡あるいは宮城野と称される歌枕の地で、ツツジが多くみられたことから「躑躅岡」「躑躅ヶ岡」「山榴岡」「榴ヶ岡」などと表記されていた[3][注 1][注 2]。江戸時代に仙台藩主伊達綱村がこの地に桜を植樹して民衆に開放したことから、当時から現在に至るまで花見の名所となっている[3]。 1927年(昭和2年)頃の仙台市および近郊地図。地図の30番が歩兵第4連隊兵営。31番が釈迦堂。32番が榴岡公園。1975年度(昭和50年度)撮影の国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
歴史
現在の仙台市内には、古来に歌枕として詠まれた地名が3つあった。宮城野と玉田横野と、そして躑躅岡である。
藤原仲平 「みちのくの つつじが岡の くまつづら 辛しと妹を けふぞ知りぬる」(『古今和歌六帖』)[4]
右大将道綱の母 「みちのくの 千賀の浦にて 見ましかば いかにつつじの をかしからまし」
二条大后宮肥後 「東路や つつじが岡に 来て見れば 赤裳の裾に 色ぞかよへる」(『夫木和歌集』)
道興准后 「名にし負ふ つつじが岡の 下わらび 共に折り知る 春の暮れかな」
平安時代末の1189年(文治5年)、源頼朝と奥州藤原氏の藤原泰衡が戦った奥州合戦において、泰衡は国分原鞭楯に本陣を置いて頼朝の軍勢に備えた。この国分原は宮城野原であると考えられており、鞭楯は現在の榴岡公園の辺りと推測されている[5]。
関ヶ原の戦いの後、伊達政宗は1601年(慶長5年)仙台城を築き岩出山城から移った。この際、石巻の日和山と共に榴岡も築城の候補地だったと言われる。ただし、これは後世に記された文献に見られる話であり、具体的根拠が伴っているわけではなく、信憑性は低いと考えられている[6]。江戸時代になると、躑躅岡に替わって榴岡や榴ヶ岡の表記が一般的になる[7]。
1650年(慶安3年)、仙台七崎の1つ「玉手崎」の天神社境内に仙台東照宮が造営され、天神社はその境内社とされたが、仙台藩第3代藩主・伊達綱宗によって1667年(寛文7年)7月25日、榴岡に遷宮され榴岡天満宮となった[8][9]。