榛名_(戦艦)
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榛名
第二次改装で海上公試中の榛名(1934年8月)
基本情報
建造所川崎造船所[1]
運用者 大日本帝国海軍
艦種巡洋戦艦[2] → 戦艦[3]
級名金剛型[4][3]
艦歴
計画第三期拡張計画(予算のみ)[5]
新充実計画(1911-1916年度)[6]
起工1912年3月16日[1]
進水1913年12月14日[1]
竣工1915年4月19日[1]
最期1945年7月28日、空襲により大破着底
1946年7月4日武装解体完了
除籍1945年11月20日[7]
要目
排水量26,330トン
29,330トン(第一次改装)
32,156トン(第二次改装)
全長214.6m
222.05m(第二次改装)
最大幅28.04m
31.02m(第一次改装)
機関蒸気タービン2基4軸
64,000馬力
蒸気タービン2基4軸
75,600馬力
(第一次改装)
蒸気タービン4基4軸
136,000馬力
(第二次改装)
速力27.5ノット
25ノット(第一次改装)
30.5ノット(第二次改装)
航続距離8,000(14ノット時)
9,500浬(14ノット時)
(第一次改装)
10,000浬(18ノット時)
(第二次改装)
乗員1,221名
1,315名(第二次改装)
兵装35.6cm45口径連装砲4基
15.2cm50口径単装砲8基
12.7cm連装高角砲6基
25mm三連装機銃24基
25mm連装機銃2基
25mm単装機銃23基
(レイテ沖海戦時)
装甲舷側:8in(203.2mm)-3in(76.2mm)[8]
甲板:2.25in(57.2mm)-2.63in(66.8mm)[8]
砲塔:10in(254mm)-9in(228.6mm)[8]
司令塔:10in(254mm)[8]
弾火薬庫甲板:64mm?102mm(第一次改装時)
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榛名(はるな)は、日本海軍巡洋戦艦[2]、後に戦艦[3]金剛型[4]の3番艦。
艦名の由来

榛名の艦名は、群馬県にある上毛三山の一つの榛名山に由来する[9]戦艦にもかかわらず旧国名ではなく山岳名をもつ理由は、榛名を含む金剛型は当初「装甲巡洋艦」として計画されたので、一等巡洋艦の命名慣例に従ったものである。艦内神社は榛名神社からの分祀で、艦長以下乗組員が度々参拝し、また榛名神社側も神職を派遣するなどの交流があった[10]。戦後、艦名は海上自衛隊はるな型護衛艦はるな」に継承された[11]
建造の経緯

榛名は当初「第二号装甲巡洋艦」として計画され、1911年4月、神戸川崎造船所(のちの川崎重工業)に発注された。それまで海外発注か海軍工廠でしか建造されることのなかったいわゆる主力艦としては初めて民間造船所に建造発注された艦である。一方、三菱合資会社長崎造船所(のちの三菱重工業)にも「第三号装甲巡洋艦(後の金剛型戦艦四番艦・霧島)」が発注され、工程の進捗状況がほぼ同時であったことから、両社は激しい競争意識をもって建造に当たることになる。川崎造船所は榛名の建造に先だってドイツ設計の大型ガントリークレーンや、艤装用のイギリス製大型クレーンを購入するなど、将来の大型軍艦建造を見据えた準備を行っていた[12]

榛名は1912年(明治45年)3月に起工し、1913年(大正2年)12月に進水した。工事もかなり進んだ1914年、1つの悲劇が起きた。この年の11月18日に機関の繋留試運転が予定されていたが、直前に故障が見つかったため予定が6日遅れることとなった。本来であれば試運転が実施されるはずだった18日の朝、機関建造の最高責任者であった川崎造船所造機工作部長・篠田恒太郎(しのだ・こうたろう)が自刃してしまったのである。遺書などはなかったが、繋留機関試験遅延の責を感じた上だということは明らかであった。当時の軍艦建造は、それほど重大な責任感を持って行われていた。

篠田工作部長の死から半年後、巡洋戦艦榛名は同型艦の霧島と同時に竣工、海軍横須賀鎮守府に引き渡された。これ以降、民間造船所でも主力艦の建造が行われるようになる。なお、霧島と同時竣工したのは、篠田工作部長自刃の報を受けた海軍が両社へ配慮を促したためである。
新造時の特徴など

主機には川崎造船所と技術提携を結んでいたジョン・ブラウンのブラウン・カーチス式直結タービンを、川崎造船で製造したものを榛名のみ搭載していた。これは一つのタービンで圧力の異なる複数のシリンダーに分けて出力するエンジンで、それぞれのシリンダーを推進軸に直結して1基辺り2本の推進軸を動かすものであった。

兵装上の特徴としては、主砲には従来のヴィッカース製ではなく、国産の四一式36センチ砲(正確には14インチ=35.6センチ砲)が、本艦より採用された。

また、副砲は両舷の甲板よりやや低い砲郭に片舷8門計16門を新造時に装備していたが、第一次世界大戦以降、戦艦が主砲で撃ち合う状況では射程が短く射界の狭い小口径砲が利用される機会が激減し、後に重量軽減や不沈対策の名目で撤去されている。まず1932年には対空機銃増設による重量軽減のため両舷最前方の1・2番副砲を撤去、太平洋戦争中の1944年2月前後にさらに6門を撤去し、戦争後半には片舷4門計8門を残す状態となっていた。

さらに、他の金剛級戦艦同様榛名も新造時に53.3cm魚雷発射管を片舷4門ずつ計8門装備していた。これは左右対称ではなく、左右でややズレた位置に、喫水線下に固定装備されている。当時は砲戦距離が短く想定されており破壊力の優れた魚雷を併用することが考えられたためと思われるが、砲戦距離の延長に伴って榛名の発射管が実戦で使われた記録はない。これら発射管については後に撤去されたとも第二次改装以後も残されていたとも言われているが、新造時に装備されていた事実以外は明確な情報が見当たらないのが現状である。
艦歴
戦前

榛名は1912年3月16日川崎造船所で起工[1]1913年12月14日伏見宮貞愛親王列席の下で進水[12]1915年(大正4年)4月19日、榛名は巡洋戦艦として竣工[1]横須賀鎮守府籍。同年6月5日大正天皇は新鋭巡洋戦艦樺型駆逐艦を親閲するため、横須賀軍港に行幸する[13][14]。午前11時10分、天皇は榛名に乗艦して艦内を親閲した[15]。つづいて天皇は霧島に移動し、同様に艦内を親閲した[16]。午後2時50分に退艦し、東京へ戻った[17]。12月、第二艦隊第三戦隊に同型艦3隻とともに編入された。

1916年、先にイギリス海軍によって導入されていた方位盤射撃照準装置(但し、試作機)を日本海軍で初めて搭載した。


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