榎本武揚_(小説)
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榎本武揚
作者
安部公房
日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌連載
初出情報
初出『中央公論1964年1月号(11月号は休載)-1965年3月号(全14回)
刊本情報
出版元中央公論社
出版年月日1965年7月26日
装幀安部真知
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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『榎本武揚』(えのもとたけあき)は、安部公房長編小説前衛的な作風の多い安部文学の中では異色の歴史小説である。北海道厚岸に住む元憲兵の旅館の主人から、ある古文書を送られた「私」が、徳川幕府海軍副総裁・榎本武揚の実像を追っていく物語。榎本暗殺を目論んだ元新撰組隊士の告発文を頼りに、榎本の「裏切り」と「変節」の過程の真相を、五稜郭の戦いの時期の動きから追求しつつ、世間が「勤皇」か「佐幕」かと騒ぐ中、そのどちらでもない立場があることを信じた榎本の姿を独自の視点で描いている[1]。戦時の忠誠を咎められることを拒否する元大日本帝国陸軍憲兵の心情と、幕末の榎本の「裏切り」の物語を入れ子構造の構成で関連させながら、時代と人間との関係性、「忠誠」「転向」とは何かを問いかけた作品である[2]

続編的な戯曲版『榎本武揚』も1967年(昭和42年)に創作され、同年9月20日に劇団雲により大手町日経ホールで初演された。
発表経過

1964年(昭和39年)、雑誌『中央公論』1月号から(11月号は休載)翌年1965年(昭和40年)3月号まで14回連載され、同年7月26日に中央公論社より単行本刊行された[3]。なお、単行本は、初出誌版を加筆・改稿した形のものが刊行された[2]
安部公房の「榎本武揚」観

安部公房榎本武揚について、「もし、節操の欠如だけが、彼の行動原理だったとしたら、なにも五稜郭共和国宣言をするような、挑発的言動に出なくとも、もっと有利な条件で薩長勢と和解する機会は、それまでにも、いくらもあったはず」だとし、以下のように考察している[1]文久二年から、慶応三年までという、幕末動乱期の最後の五年間を、すっかりオランダ留学ですごしてしまった榎本にとって、佐幕勤皇かなど、もはや本質的な対立とは見えなくなってしまっていたのではあるまいか。彼の「渡蘭日記」が、セントヘレナに到着の前夜、ナポレオンをしのぶを最後にして中断されていることなども、はなはだ暗示的なことである。また留学中、デンマーク王国が、プロイセンに一気にじゅうりんされる様を目のあたりに見て、なんの感慨もわかなかっただろうなどとは、想像するほうが困難なくらいだ。このころ知った赤十字精神を、彼は後に箱館戦争でさっそく実施し、敵味方を煙にまいている。 ? 安部公房「幕末維新の人々」[1]
主題

安部は、榎本武揚があえて箱館戦争に踏みきった動議を小説『榎本武揚』で解明しようとしたとし、それは単なる歴史的興味だけではなく、榎本武揚が後年、久保栄の『五稜郭血書』によって、左翼的見地から裏切り者として激しく攻撃を受けた一方、戦後は、銅像撤去審査委員会から、撤去の必要なしとの扱いを受けたという皮肉な事実への注目をうながしておきたいという意味もあるとし、次のように語っている[1]。思想と行動との関係を、その具体的な内容に即してとらえようとはせず、もっぱら忠誠は善、転向は悪と割り切ってしまう、明治以来の伝統的美徳だけは、どうやら左右を問わず、いまだに健在のままで生きのびているらしいのである。忠誠でもなく、裏切りでもない、第三の道というものはありえないのだろうか。 ? 安部公房「幕末・維新の人々」[1]

また安部は、〈忠誠でもなく、裏切りでもない、第三の道というものはありえないのだろうか〉という意味について三島由紀夫に問われ、組織と人間との対立は、そこの中に「隣人と他者という対立」が持ち込まれるから起こってくるのだとし、「隣人をすべて抹殺して他者だけになったら、もちろん自分自身も他者になるわけだが、そうしたら組織と人間が対立するという状況はあり得ないのではないか」と提起している[4]。そして三島から、「それでは疎外という問題が、そこに出てくるかい」と問われると、「それは、うっかり言えない」とし、大江健三郎がいつも〈私たち〉と複数で呼称していることが批評家から非難されることに触れて、「日本の批評家は、隣人的な〈私〉を大事にしすぎるので困る」と言い、「やはり、隣人と他人の隙間というものに、どこまでわれわれが入って行くのか、入って行けるのかということ、そこからまた、入って行っているかということで批評すべき」だとしながら、「〈私〉が〈私〉の隣人になって、すっきりまとまってみたって仕方がない」と説明している[4]
あらすじ

5年前、放送局の依頼で北海道旅行に行った「私」は、厚岸の旅館の主人から、この地にまつわる或る伝説を聞いた。それは、明治2、3年頃に厚岸の港で、榎本武揚と関わった囚人300人が護送中に脱走し、蝦夷地共和国を作ろうとしたという話だった。この旅館の主人・福地伸六は大東亜戦争中の元憲兵で、忠義のために義弟を通報したことがある男だった。戦後は何かと元憲兵の立場を非難の目を向けられていたが、そんな自分を、明治新政府によって囚人にされた者たちに重ねることで、福地は心を慰められていた。世間一般では、転向者という目で見られている榎本武揚だったが、その伝説の件で福地は、かつて時代に裏切られた者どもに、榎本武揚が温かい眼差しをもって手を貸してやったのだと解釈し、榎本武揚を尊敬していたのだった。

その1年後、その話を忘れかけていた「私」の元に、福地から手紙と「五人組結成の顛末」という古文書を書き写した束が送られて来た。それは新撰組隊士・浅井十三郎が、榎本武揚の裏切りを告発する内容のものだった。福地はその資料を発見したことにより、頼みの綱とすがっていた榎本武揚の幻影が崩れてしまったと綴っていた。榎本武揚は福地が期待していたような、落伍者たちの守護神などではなく、両者の間にあったのは憎悪と反目ばかりだった。「私」は福地に連絡をとろうとしたが、彼は「私」にその書類を送った後に失踪してしまっていた。

「私」は、榎本武揚の実像を追うべく、「五人組結成の顛末」を読んでいく。五稜郭の戦いは榎本武揚と大鳥圭介の仕組んだ負戦のような様相だった。そのことを土方歳三は徐々に気づき、榎本の「変節」に虚しい思いを抱く。奥州戦争にはじまり五稜郭に終わるこの一大叙事詩は、実は内戦の早期終結を目指した計画的敗走であり、世界の歴史にも類を見ない、大胆不敵な「八百長戦争」であった。榎本は、国内戦がどんどん激化すれば、日本に干渉してくるイギリスアメリカフランスロシアなどに政府を売り渡すことになりかねないと言い、日本が天竺清国の二の舞になってしまうのを危惧していることを土方に説明した。しかし榎本の見通しも甘く、列国が局外中立を解除し出した。榎本の計画は、土方はじめ新撰組斬り込み隊志願の勇士面々を、みすみす犬死させるための単なる策略にも疑われた。しかし五稜郭の戦の後、東京の辰の口の牢屋に送られた榎本は、「僕が、負けるが勝ちの道を選んだのは、誰にたのまれたからでもない、自分でそれが正しいと判断したからなのだ」と言う。

福地は途中の手記で、なぜか榎本さんを心底から憎む気にはなれないと書き、「忠誠」が否定されるならば、「裏切り」という言葉もあってはならないのではないか、という疑問も呈されてもいたが、最後には、榎本さんにかけていた「私」の期待はこれで完全に裏切られてしまったと締めくくっていた。

再び「私」は北海道へ行き、福地が引き取って育てた甥(義弟の息子)に会った。福地の甥は、戦時中に伯父が自分の父親を摘発したことを許してはいなかった。甥は、榎本武揚が福沢諭吉などから変節漢呼ばわりされたことの弁明を勝海舟に頼み、勝に嫌われた挿話などを話した。汚名に甘んじる勇気もない者に、忠誠をもてあそんだりする資格はないということでしょう、と甥の見解はそっけなかった。
登場人物

文筆業。放送局から仕事の依頼を受け、
北海道厚岸に行く。
福地伸六
北海道厚岸にある福地屋旅館の当主。元憲兵


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