さかきだ けいじ
榊田 敬二
本名榊田 敬治(さかきだ けいじ)
別名義榊田 敬治
生年月日 (1900-01-15) 1900年1月15日
没年月日不詳年
出生地 日本 秋田県仙北郡大曲町[注釈 1]
職業俳優
ジャンル劇映画(現代劇・時代劇、特撮映画、サイレント映画・トーキー)
活動期間1921年 - 1975年
主な作品
『ゴジラ』
受賞
「映画の日」永年勤続功労章(1961年)
テンプレートを表示
榊田 敬二(さかきだ けいじ[出典 1]、(1900年〈明治33年〉1月15日[出典 2] - 没年不詳)は、日本の俳優[出典 3]。本名・旧芸名は榊田 敬治(読み同じ)[5][7]。おもに現代劇に出演し、戦後は東宝特撮に多く出演[7][9]。 1900年(明治33年)1月15日、秋田県[3][4]仙北郡大曲町[注釈 1]に生まれる[5][7]。 東京に移り、旧制・赤坂中学校(現在の日本大学第三高等学校)を卒業後、1921年(大正10年)10月、高田馬場に撮影所を持つ小松商会
人物・来歴
1930年(昭和5年)、太秦撮影所を使用していた帝国キネマ演芸に移籍し、同年11月20日に公開された高見貞衛監督の『素晴らしい奴』などに出演したが、同社は翌1931年(昭和6年)8月28日に新興キネマに改組されたため、榊田は、この新会社に継続入社する[5]。1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキーのための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに参加する[10]。同社は1937年(昭和12年)4月に解散するが、榊田は前年中に東京に移り、P.C.L.映画製作所に参加、1937年(昭和12年)9月10日に合併して設立された東宝映画に継続入社[5][4]。これを機に従来本名を用いていたが、芸名を「榊田 敬二」とする[5][4]。
第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)8月15日以降も、東宝争議以降も、東宝に所属し、多くの作品に出演を続けた[5]。満62歳を迎えた1962年(昭和37年) - 1965年(昭和40年)の間は、ペースをダウンして休業した[5]。満68歳を迎え、1968年(昭和43年)6月8日に公開された森谷司郎監督の『首』を最後に引退したが[5]、1975年(昭和50年)3月15日に公開された本多猪四郎監督の『メカゴジラの逆襲』まで、端役で出演した。 すべてクレジットは「出演」である[出典 5]。公開日の右側には役名[出典 5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵などの上映用プリントの現存状況についても記す[10][11]。同センターなどに所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 特筆以外はすべて製作・配給はタカマツ・アズマプロダクションである。 すべて製作は日活太秦撮影所、配給は日活である[8]。 すべて製作・配給は帝国キネマ演芸である。すべて「榊田敬治」名義である。
フィルモグラフィ
初期
『熱火の狼』 : 製作・配給小松商会
『民族の黎明』 : 監督三枝源次郎、製作日活大将軍撮影所、配給日活、1924年7月4日公開[5]
タカマツ・アズマプロダクション
『男児一諾
『燃ゆる情魂 前篇』 : 監督友成用三、1926年2月19日公開 - 執事
『燃ゆる情魂 後篇』 : 監督友成用三、1926年2月26日公開 - 執事
『母に誓ひて』 : 監督山本嘉次郎、1926年4月3日公開 - 秋田のベン(乾分)
『銅銭会事変』 : 監督横田豊秋、1926年7月1日公開 - 用人
『黄門漫遊記』 : 監督高松操、1926年10月3日公開 - 渥美格之進
『マツダ映画小品集 「雲」』 : 監督山本嘉次郎、1926年製作・公開 - 泥棒
『陽炎の舞』 : 監督友成用三、1927年製作・公開 - 探偵狂
日活大将軍撮影所
『喧嘩』 : 監督東坊城恭長、1927年11月25日公開 - 洋食屋の勝助
『沈み行く人魚
『奮戦王』 : 監督浅岡信夫、1928年12月31日公開 - 正木製薬社員
『生ける人形』 : 監督内田吐夢、1929年4月19日公開
帝国キネマ演芸
『野獣群