榊原英資ドイツにて(2004年)
生誕 (1941-03-27) 1941年3月27日(83歳)
研究分野国際金融論
実績官僚時代から精力的に経済学の研究・経済学の専門書の執筆活動をしている
テンプレートを表示
榊原 英資(さかきばら えいすけ、1941年〈昭和16年〉3月27日 - )は、日本の経済学者、青山学院大学教授。専門は国際金融論。
は実弟。血液型はB型[1]。横浜国大鎌倉中学校、都立日比谷高校卒業。日比谷高校時代に米国へ交換留学。東京大学に進学し経済学部(小宮ゼミ[2])卒業[3][注 1]。
同大学大学院経済学研究科進学後、時の大蔵省大臣官房秘書課長であった高木文雄に面会し、優の数を増やし、国家公務員上級職試験50番以内で採用条件にすることを告げられる。上級職試験では「経済職」で受験、14番で合格し、東京大学大学院修士課程(理論経済)修了後の1965年に大蔵省入省、それでも同期中下から2番目での入省であったと自著で述べている[4][注 2]。
入省後、ピッツバーグ大学およびミシガン大学に留学。ミシガン大学大学院博士課程修了。学位は経済学博士(ミシガン大学、1969年)[3]。
1977年、官僚批判・自民党政治批判と受け取られかねない論文を出し、竹内道雄事務次官 - 長岡實官房長により埼玉大学教養学部助教授に一旦出される。この頃、新自由クラブからの出馬を検討した。その後大蔵省に復職。1989年6月、理財局総務課長。榊原はこの大蔵省に復職した際から、自分は国際金融畑しかないと考えていた。しかし、当時の国際金融局には榊原と合わない幹部がいたため、当時財務官だった行天豊雄が「早めに戻すと、榊原はどっかに飛ばされちゃうかもしれないな」と気を使い、国際金融局に戻るのが遅れたとされている[5]。1990年6月、東海財務局長。国際金融局次長を務めた後で、最終ポストとされることも多い財政金融研究所所長に転出していたが、当時の武村正義蔵相の強い意向の下、行天らの後押しもあり、久保田勇夫国際金融局次長(現・西日本シティ銀行会長)を押しのける恰好で国際金融局長に就任、のち財務官まで務めた[3]。
学歴
1964年3月 - 東京大学経済学部卒
1965年3月 - 東京大学大学院経済学研究科修士課程修了
1969年5月 - ミシガン大学経済学研究科博士課程修了
職歴
1965年4月 - 大蔵省入省、関税局国際課配属
1969年4月 - 大臣官房秘書課財務官室付主任[6]
1970年7月 - 豊岡税務署長
1971年9月 - 派遣職員(国際通貨基金)
1975年7月 - 銀行局保険部保険第一課長補佐
1977年8月 - 埼玉大学教養学部助教授
1980年9月 - ハーバード大学客員准教授
1981年7月 - 大臣官房企画官兼国際金融局調査課
1983年4月 - 日本輸出入銀行嘱託(国際金融情報センター総務部長)
1985年6月 - 理財局国庫課長
1987年7月 - 理財局資金第二課長
1988年6月 - 理財局国債課長
1989年6月 - 理財局総務課長
1990年6月 - 東海財務局長
1991年6月 - 大臣官房審議官(国際金融局担当)
1993年7月 - 国際金融局次長
1994年7月 - 財政金融研究所所長兼会計センター所長
1995年5月 - 国際金融局長
1997年7月 - 財務官
1999年7月 - 退官 後任は黒田東彦国際局長
慶應義塾大学グローバルセキュリティーセンター
趣味はスキューバダイビング。妻と息子、娘がいる。
皇后雅子(当時:小和田雅子)のハーバード大学経済学部卒業論文“EXTERNAL ADJUSTMENT TO IMPORT PRICE SHOCKS / OIL IN JAPANESE TRADE”(輸入価格ショックへの外的調整・日本の石油貿易)の謝辞において糠沢和夫、真野輝彦
その経歴からか退官後の教育者の立場になってからは英語で意思疎通をすることの重要性を大学(院)の講義・シラバスや著作の中で強調する。 退官後後の著作物の中ではアメリカ・欧州中心の時代が終わり再び中国・インド中心の時代が来る(リオリエント)と主張している。また官僚時代後半にも若手官僚の中国への留学を推進する(それまでは現在以上に大蔵省・財務省の若手の留学先はフランス・ドイツ・アメリカが中心)など、こうした意識を官僚の頃から抱いていたとされる。 日本のデフレーションについて「日本の場合、デフレといっても耐久消費財の価格下落の寄与率が高く、人々が日常的に購入する財の価格は継続的に下降しているわけではない。
政策
理財局国庫課長の時に天皇陛下御在位六十年記念金貨発行を企画した。この金貨は額面10万円に対し金の含有量が4万円分ほどしかなく、政府は1枚あたり6万円近い差益を得られた。そのため当初は税外収入獲得の妙案として高く評価されたが、鋳型から鋳造するだけの金貨は偽造防止が難しく、偽造金貨事件を誘発した[8]。そのうえ翌年に100万枚も追加発行して、記念硬貨としての希少性を失わせたといわれている。
第2次橋本内閣当時の財務官職在任中、金融ビッグバンの第一歩として、「内外資本取引の自由化」や「為銀主義の廃止」を柱とした外為法改正(1998年4月施行)で水野清を引き込んで、推し進めたとされている。
主張