榊原氏
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2018年12月)

榊原氏(さかきばらし)は、日本の氏族のひとつ。
三河榊原氏

榊原氏
榊原源氏車[1]、九曜[1]
本姓称・清和源氏河内源氏仁木氏
家祖榊原長政?
種別武家
華族(子爵)
出身地三河国
主な根拠地三河国
上野国
陸奥国
播磨国
越後国
東京市杉並区和泉町
著名な人物榊原康政
凡例 / Category:日本の氏族

三河国の榊原氏は、中世に三河国を拠点とし、江戸時代に譜代大名となり、維新後に華族の子爵家に列した家である[2]。家紋は源氏車。
出自

清和源氏仁木氏流の榊原氏の一族とされ[3]、『寛永諸家系図伝』には仁木義長の子孫であることが記されており、『藩翰譜』によれば「式部少輔源康政は、伊勢の仁木が流れなり。右京大夫義長の後胤、一志郡榊原の住人、七郎右衛門清長、三河国に移りて、源蔵人殿〔松平親忠〕に仕え奉る」とある[4][3]。『寛政譜』にも榊原清長が伊勢から移住したことが記されている。

『伊勢名勝志』は清長が三河国に移り住んだ時期について、疑問があることを記している[注釈 1]

また三河に移った榊原氏にも複数の系統があり、後年大名になった榊原氏はその中でも分家筋だったとする可能性もある[5]
戦国時代

戦国時代には松平氏に仕えたが、のちに累進する榊原家は松平氏傘下の酒井忠尚に仕える陪臣であったとされる。酒井忠尚は三河一向一揆と同時期に居城を中心に松平家に反旗を翻し、代わって榊原氏は松平家に与して戦功を挙げた。ただしこれ以前から榊原康政が家康の小姓に取り立てられているため、三河一向一揆以前から榊原家は陪臣の域を越えて松平本家と直接の関与があったと思われる。[要文献特定詳細情報]三河一向一揆で初陣を飾り、旗本先手役を新設した徳川家康に抜擢された康政は、本多忠勝と並んで頭角を現すと徳川四天王徳川十六神将に数えられ、上野国館林藩主となった[1]。康政の子孫はこの藩祖の功績により、江戸幕府において有力な譜代親藩となる。
江戸時代

康政の子である康勝(三男)は嗣子無きまま、大坂の陣の際に持病の痔が悪化して死亡した。榊原家は断絶しかけるが、徳川家康の介入により、康政の長男で母方の大須賀家を相続していた大須賀忠政の子の忠次が榊原家を継承した。これにより大須賀家は断絶した。のちに、康勝には勝政という隠し子が存在し、榊原家の重臣らが意図的にこれを隠匿していたことが発覚した。伝承では重臣達は配流されたとされているが、幕府の記録では却って徳川秀忠より所領を与えられて御付人(御三家の御附家老にあたる)の祖になったと伝えられている。後に勝政は幕府に取り立てられ、子の代より旗本榊原家となる。

忠次の孫の政倫が嗣子無きまま19歳で死去し、榊原式部大輔家は5代で一度断絶しかけた。しかし、親族の大名家による家名存続活動が実を結び、前述の旗本榊原家より養子の政邦(康勝の曽孫)が入り断絶を免れた。その子の政祐の死去の際にも勝政系旗本榊原家から政岑末期養子に入っている。

榊原政岑は将軍徳川吉宗の倹約令に従わず贅沢を尽くしたことで吉宗の怒りを買い、蟄居隠居および姫路藩から越後高田藩への懲罰転封をされた。表高は15万石のままだったが実高は半減した。このことが明治に至って榊原家の爵位に響くことになる[6]

その跡を継いだ政純は政岑の死後まもなく夭逝し、またも断絶の危機を迎えたが、幕閣から内密の了承を得て、死んだ政純の身代わりに弟の政永を秘かにすり替えることで存続した。

これら懲罰などを重ねつつも榊原家が取り潰しにならなかったのは、藩祖康政の功績が考慮されたことと、最初の断絶の危機の際に家康が直々に家の存続を命じたことで、以降の幕府もその例に倣ったものと考えられる。

幕藩体制下では、下記のように、さまざまな藩地に転封されているが、越後高田に入って以降は落ち着いた。

1590年 - 1643年: 上野国館林藩(群馬県館林市

1643年 - 1649年: 陸奥国白河藩福島県白河市

1649年 - 1667年: 播磨国姫路藩兵庫県姫路市

1667年 - 1704年: 越後国村上藩新潟県村上市

1704年 - 1741年: 播磨国姫路藩(兵庫県姫路市)

1741年 - 1871年: 越後国高田藩(新潟県上越市

越後高田藩第6代(最後)の藩主・榊原政敬は、譜代大名の立場もあって、鳥羽伏見の戦い直後の頃は、政府に対して徳川家改易を免除するよう嘆願しつつ、徳川慶喜に対して政府に謝罪すべきことを諫言するという「哀訴諫諍」の立場を取っていたが、佐幕派の旧幕臣古屋佐久左衛門の隊が高田藩の領内を通過して官軍の尾張藩軍や松代藩軍に攻撃をしかけた事件が起き、高田藩は尾張藩や松代藩から糾弾された。高田藩が古屋隊を強襲したので高田藩の関与の疑惑は不問となったが、これを契機に官軍に鞍替えし先鋒として参戦、長岡藩や会津藩の征圧に参戦して大いに戦功をあげた[7]。戊辰戦争終結後には松代藩と共に降伏した会津藩士の御預を命じられる[8]

館林城本丸跡

白河城

姫路藩歴代藩主居城姫路城

姫路書写山圓教寺にある榊原家廟所

越後村上城 遠景

越後高田藩・越後高田城三重櫓

越後高田藩主・榊原家を祀る榊神社(新潟県上越市)


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