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楽長(がくちょう) 欧州での楽長は、もともとは指揮者としてだけではなく、その楽団、古くは宮廷や市の作曲家や編曲者であり、さらに組織上の任務も担った。15世紀から19世紀にかけて、それぞれの音楽団体における創造的な統率者であった。宮廷楽長(ドイツ語: Hofkapellmeister)には、ハイドンやサリエリがいた。なお楽長はこの当時、公的に宮廷あるいは市から授与される名誉称号にもなった。 18世紀半ばからは、各劇場に楽長が置かれるようになった。稽古をつけ、公演を行う一方で、演目の絶え間ない更新のために尽力した。19世紀中ごろ、アドルフ・ミュラー1世
カペルマイスター(独:Kapellmeister)。欧州の合唱団や管弦楽団における、指導者である。指揮者の同意語と理解される場合も多い。
楽長(がくちょう[1])は1872年(明治5年)から1876年(明治9年)にかけての海兵隊の下士の官名で、楽隊長(がくたいちょう[1])・楽隊次長(がくたいじちょう[1])に次ぎ、鼓長と同等、楽師・鼓次長の上にあたる[2] [注釈 1]。
楽長(がくちょう[1]、[注釈 2])は1875年(明治8年)から1883年(明治16年)にかけての日本陸軍の軍楽部准士官の官名[10]。
楽長(がくちょう[1])は1876年(明治9年)から1886年(明治19年)にかけての日本海軍の軍楽隊の准士官の官名[7] [注釈 3]。また、それが転じた俗語。
軍楽長(ぐんがくちょう[13])は1883年(明治16年)からの日本陸軍の軍楽部准士官の官名で[14]、1885年(明治18年)から1899年(明治32年)にかけて軍楽部士官及び軍楽部准士官の官名となる[注釈 4]。
軍楽長は1897年(明治30年)から1915年(大正4年)にかけて日本海軍の軍楽隊の士官の官名で、准士官である軍楽師の上にある[18]。1915年(大正4年)から1920年(大正9年)にかけては海軍軍楽長を特務士官に分類した[19] [注釈 5]。
陸軍楽長は1899年(明治32年)から1937年(昭和12年)にかけての日本陸軍の軍楽部士官の官名[17] [注釈 6]。
カペルマイスター
1900年ごろには、指揮者と作曲家がそれぞれの職種として別れていくようになった。グスタフ・マーラーは、伝統にのっとって指揮も作曲もした音楽家であったが、生前は、作曲家としての正当な評価をされたとは言い難い。
複数の指揮者を抱える歌劇場においては、カペルマイスター(Kapellmeister)は今日もなお職業名として使われる。一般的に音楽総監督に次ぐ指揮者として第一カペルマイスターが置かれるが、ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者が伝統的にGewandhauskapellmeister(ゲヴァントハウスカペルマイスター)と呼ばれるなどの例もある。 善行章を1本着けた二等兵を表す下士官兵の俗語として使われた。3年以上勤務して一等兵に進級できないということは人物に問題があることを意味し、新兵からは恐れられた。これは軍楽隊の進級が遅いことに由来するものである[23]。
日本海軍における楽長
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 1873年(明治6年)に海軍武官官等表に掲載したことで正式な官名となり、官等15等のうち楽隊長は十一等として曹長と同等、楽隊次長は十二等として軍曹と同等、楽長は一三等として伍長・鼓長(こちょう[3])と同等、楽師(がくし[1])は十四等として鼓次長(こじちょう[4])と同等とし[5]、1874年(明治7年)に楽隊次長を廃止して鼓長・楽長の官等を十二等として軍曹と同等、鼓次長・楽師の官等を十三等として伍長と同等とし[6]、1876年(明治9年)に楽隊長以下を廃止して楽長を十等とし、楽次長を十一等とし、楽師を十二等とし、楽手を十三等とした[7]。海兵隊は1876年(明治9年)に解隊した[8]。
^ 五国対照兵語字書によると楽長は、フランス語: Chef de musique
^ 1886年(明治19年)から名称を軍楽師に改め[11]、1920年(大正9年)から名称を海軍軍楽兵曹長に改めた[12]。
^ 1885年(明治18年)に少尉相当の軍楽部士官である一等軍楽長と軍楽部准士官の二等軍楽長に改め[15]、1886年(明治19年)に名称を陸軍一等軍楽長と陸軍二等軍楽長に改め[16]、1899年(明治32年)に陸軍一等軍楽長は陸軍楽長に、陸軍二等軍楽長は陸軍楽長補に改めた[17]。