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東京都青梅市にかつて存在した遊園地については「青梅鉄道楽々園」をご覧ください。
その他については「楽々園 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
楽々園遊園地
施設情報
キャッチコピー電車で楽々行ける遊園地
管理運営広島瓦斯電軌株式会社 →
広島電鉄株式会社 →
有限会社楽々園 →
広島電鉄株式会社 →
広電観光株式会社 →
株式会社広電楽々園
面積約1万坪
開園1936年(昭和11年)9月8日
閉園1971年(昭和46年)8月31日
所在地広島県佐伯郡五日市町海老塩浜[注釈 1]
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度21分43.4秒 東経132度21分8.4秒 / 北緯34.362056度 東経132.352333度 / 34.362056; 132.352333
株式会社広電楽々園種類株式会社
本社所在地 日本
広島県広島市中区東千田町二丁目9番29号[1]
設立1960年(昭和35年)4月1日[2]
事業内容飲食店事業
代表者高石稔[1][注釈 2]
資本金2000万円[1]
従業員数16人[1]
特記事項:以上の情報は合併直前の『広島商工年鑑'92』の情報に基づく
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楽々園遊園地(らくらくえんゆうえんち)は、広島県佐伯郡五日市町海老塩浜[注釈 1]にかつて存在した遊園地[4]。広島瓦斯電軌[注釈 3]の電鉄部門[6]の土地経営事業[7]により開発された[8]。
閉園後の跡地には、ショッピングセンター「ファミリータウン広電楽々園」が建設されている。 名称は「電車で楽々行ける遊園地」というキャッチフレーズに由来し[4][9][10]、一般公募により命名された[11]。また開園当初は「中国地方の宝塚」を目指していた[8]、 江戸時代には、楽々園のあたりは「海老塩浜」と呼ばれ、塩田での製塩が盛んな地域であった[12]。万治年間(1658年から1661年)に干潟を干拓して塩田を造成[12]。毎年1000石の塩を生産していたと『芸藩通志』に書かれている[12]。しかし1897年(明治30年)頃になると、輸入塩などの増加により、小規模塩田だった海老塩浜での塩精製業は厳しくなり[13]、塩の専売制導入と塩田業の整理施策により1911年(明治44年)に当地での塩田業は廃業した[14]。 観光地としては1897年(明治30年)頃から、夏場は多くの海水浴場が海老山周辺で営業していた[15]。 箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)による宝塚新温泉などの開発の成功により[16]、当時日本国内で全体的に行われていた鉄道会社による沿線観光振興により設置された娯楽施設の一つである[16]。広島瓦斯電軌の電鉄部門の土地経営事業の中心事業として[7]、観光客誘致を目的とした大衆向け娯楽施設を計画[7]。1919年(大正8年)時点の計画書で、場所は未定ながら住宅・運動場・潮湯場・海水浴場の整備を事業計画内で謳っていた[16]。しかし、当時の宮島線の沿線人口だけでは、十分な効果は期待できなかった[17]。 1927年(昭和2年)頃より五日市町海老塩浜地区の農耕地に住宅地の造成を開始[18]。1935年(昭和10年)に、埋め立てを開始[19][注釈 4]。約5万坪(約165,289 m2)を埋め立て[20]、住宅地中央部の[21]約1万坪(約33,058 m2)を遊園地用地に[20]、残りを住宅地にした[20]。造成された住宅地は「塩浜住宅」と呼ばれた[18]。埋め立てに使われた砂は、南側の海底の砂をサンドポンプで浚渫して使用[19]。表面は同じ町内の城根山の土で覆った[19]。 1936年(昭和11年)より住宅地の販売を開始[18]。宅地購入者への特典として、4年間宮島線および市内線で使える優待券を進呈し[19]、その優待券で楽々園遊園地に入園出来るようにした[19]。
歴史
開園まで