国際空手道連盟 極真会館こくさいからてどうれんめい きょくしんかいかん
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別名極真空手、極真カラテ
発生国 日本
発生年1964年(昭和39年)
創始者大山倍達
源流松濤館流、剛柔流
主要技術徒手空拳
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極真会館(きょくしんかいかん、英: Kyokushinkaikan)は、大山倍達が創設した空手道団体。正式名称は国際空手道連盟 極真会館(こくさいからてどうれんめい きょくしんかいかん、英: International Karate Organization Kyokushinkaikan, IKO or IKOK)。通称は極真カラテ。前身は大山道場。
極真の由来は「千日を以って初心とし、万日を以って極とす」という言葉の“心”を“真”に変え「武の真髄を極める」という意味での名称とした。 1964年4月、大山倍達は大山道場を財団法人極真奨学会の傘下にして、国際空手道連盟 極真会館を設立。会長に佐藤栄作、副会長に毛利松平を迎え、大山は館長に就任。同年6月東京都豊島区西池袋に本部道場の工事が着工。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}以前から建設に踏み切ってはいたが、財政難から工事はしばしば中断されていた。[要出典]建設には資金援助をしてくれた人たちのほか、「黒崎健時師範の貢献がとても大きい」と中村忠は証言している[1]。同年11月竣工。翌1965年1月、国際空手道連盟極真会館を正式に発足。 極真会館は伝統派空手に対し、対戦相手に技を実際に当てる直接打撃制(フルコンタクト)の提唱と啓蒙を行い、 がそれぞれ相乗効果を働き、発展してきた。 最盛期は1990年代の大山存命中で各都道府県へ支部が設置され、世界123ヵ国に公認支部道場が1,000以上、会員1,200万人の規模[2]であったが、国内法的には法人ではなく自然人、つまり代表者の個人事業であった。 1994年に大山が亡くなると弟子たちが各々極真会館を名乗り、団体毎に門下生が在籍。それらに付随して各種大会が行われている(詳しくは「分裂騒動」を参照)。 以下、次章から大山が館長及び総裁に就いていた時代とその分裂を記す。 大山倍達自らボクシング、柔道、合気道を学んでいたことから、道場には進取の精神があった。大山道場から極真会館へ組織変更した1964年にはタイへ遠征し、黒崎健時・中村忠・藤平昭雄がムエタイルールで、ムエタイと試合をした。 1969年4月にNETは「ワールドキックボクシング」を開催し始めたが、2か月前から各方面より選手を集め、ムエタイ選手や日本拳法空手道らに出場要請をし、極真会館へもオファーがあった。大山は高弟の山崎照朝・添野義二・及川宏を選りすぐり、極真ジム所属として参戦。キックボクシングはNET他、TBS、日本テレビ、東京12チャンネルの4局で放映され、「キック戦国時代」と呼ばれるほど、4局が視聴率争いにしのぎを削るブームで、新興スポーツとして注目されていた。参戦した山崎や添野がKO勝ちして強さをアピールしたことにより、結果的には後に開催されるオープントーナメント全日本空手道選手権大会の宣伝にもなった[3]。 直接打撃制による組手試合は、山田辰雄が1962年に初めて実施していたが、寸止め試合を行う伝統派空手の諸流派から黙殺され失敗に終わった。大山倍達は極真会館竣工以降、1964年に行われた東京オリンピックの各種オリンピック競技をたびたびスタジアム観戦していたことで「極真会館内の競い合いではなく、他流派・他格闘技の参加を認めたオープン制とトーナメント制の選手権大会」を開催しようと検討し始め、名称もこのときは「全日本格闘技選手権大会」としていた。今でこそ直接打撃制の空手道選手権大会をいろいろな流派が開催しているが、当時は直接打撃に危惧を抱く会場側は決して協力的ではなく、極真会館は試合会場をなかなか確保できなかった。東京体育館とは都合3年も交渉を行い、その頃、盛んになり出したキックボクシングの例をあげ、その安全性をよく説明することにより許可を得て、ようやく1969年9月に念願であった第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(以降、全日本選手権に略)として開催に至った[2][4][5]。 “オープントーナメント”と謳った全日本選手権は、「空手界の各流派はもちろんのこと、武道全般・拳法・ボクシング・キックボクシング等、誰でも参加できる」というキャッチフレーズで参加の呼びかけを行った。韓武舘をはじめ、申し込みをした選手の半数が他流派で、なかには柔道参段で体重100キログラムを超すギドン・ギダリー(イスラエル)、黒人ヘビー級ボクサーのポール・ジャクソン(アメリカ)、ムエタイのランキングボクサー、ビラホン・ハンピーン、サカオ・チャルムーン、サマンソー・アディソン(以上タイ)と、他格闘技からもエントリーしてきたことで、さながら“異種格闘技戦”の様相を呈していた。無差別級で直接打撃制によるKOで決定するとし、反則は「顔面への正拳・肘打ち・貫手」「頭突き」「金的」攻撃のみで、投げや掴みも認められていた。6時間にわたる激しい試合展開となったが、キックボクシングでも活躍した山崎照朝が優勝、添野義二が準優勝と主催者である極真会館の選手が上位を守った。大山倍達も「これで極真の看板を下ろさずにすんだ…」と胸を撫で下ろし、興行的にも7,000人の観衆を集め、成功した。このことが翌年以降の継続に繋がり、年に1回の全日本選手権が開催されている[3][5]。
概要
他格闘技、他団体と交流、試合、技術の吸収
年1回のオープントーナメント全日本空手道選手権大会と、4年に1回のオープントーナメント全世界空手道選手権大会を開催と成功
啓蒙に要人との繋がりを密にし、育成した弟子を世界各地に派遣し、支部の設置と指導
マスメディア戦略に注力し、ファンや門下生の増加
他格闘技、他団体との交流・試合・技術の吸収
直接打撃とオープン参加の大会
開催までの道のり
極真の看板を守り抜く
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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