極東ロシア
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極東連邦管区 (赤色の部分)

極東ロシア(きょくとうロシア、英語: Russian Far East、ロシア語: Дальний Восток России、IPA: [?dal?n??j v??stok r??s?ii])は、ロシア連邦の内、極東に分類される地域を表す用語である。東シベリアバイカル湖から太平洋に接する地域までの範囲が含まれる。ロシアの広域行政区画である極東連邦管区はこの地域全体を含み、西はシベリア連邦管区と接している。極東ロシアの大部分が、極北およびそれに相当する地域に属する。.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  極北地域   極北に相当する地域
定義
ロシア

ロシアでは、この地方は通常単に「極東」 (Дальний Восток) として言及される事が多く、国際的な意味での極東との混同を避けるために「極東ロシア」という用語が生み出された。国際的な意味での極東は、ロシアでは通常アジア太平洋地域 (Азиатско-тихоокеанский регион、略称:АТР)、もしくは東アジア (Восточная Азия)として言及される事が多い。
地理的特徴

ベエンチメ・サラーチン・クレーター
(英語版)

クリュチェフスカヤ山

千島海溝
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歴史

ロシア帝国1647年オホーツクの設立を持って太平洋岸に到達し、19世紀に極東ロシアを支配下に収めた。沿海州1856年ロシア帝国の独立した行政区画として設立され、ハバロフスクに行政の中心が置かれた。

「極東」という名称は20世紀前半には既に存在していたが、年代によりその定義は少しずつ異なる。

1920年-1922年: 極東共和国には、ザバイカルアムール州沿海州カムチャツカ州サハリン北部が含まれていた。

1922年-1926年: 極東州にはアムール州ザバイカルカムチャツカ州が含まれていた。

1926年-1938年: 極東地方には現代の沿海地方ハバロフスク地方が含まれていた。

2000年まで、極東ロシアは公式に定められた境界の定義がなかった。ウラル山脈以東のロシアの地方に関しては、単一の用語である「シベリアと極東」 (Сибирь и Дальний Восток) が使用されることが多く、「シベリア」と「極東」に明確な境界は設けられていなかった。

2000年、ロシアの連邦構成主体はより大きな連邦管区を創設することを決定、極東連邦管区が設立された。この極東連邦管区はアムール州チュクチ自治管区ユダヤ自治州カムチャツカ州コリャーク管区ハバロフスク地方マガダン州沿海地方サハ共和国サハリン州から成り立っていた。2000年以降、ロシアにおいて「極東」という用語は次第に極東連邦管区を指す用語として用いられることが増えているが、依然として「極東」は曖昧さを残したまま使用されていることも多い。

連邦管区の境界が定まったことで、極東は620万 km2以上、ロシア全体の面積の3分の1以上の面積を持つ地域となった。
ロシア帝国時代「日露戦争」を参照

1900年代前半のロシアは太平洋地域において、海上貿易とともに海軍が駐留できるような不凍港を強く求めていた。当時一番新しく開港された太平洋岸の港ウラジオストクは夏の間しか港として機能していなかったが、満洲旅順港は一年中機能していた。日清戦争1903年日本とロシア帝国政府の交渉が失敗に終わると、日本は朝鮮やその隣接地域の権益を守るため戦争を選んだ。一方、ロシアは戦争を政府の抑圧や複数のゼネラル・ストライキの余波で起きていた愛国決起集会による民衆の不満をそらすための手段として見ていた。日本は1904年2月8日に宣戦布告を行ったが、日本が宣戦布告を行う3時間前にロシア帝国政府はその情報を受けており、大日本帝国海軍は旅順港でロシア帝国海軍極東部隊と戦闘に入った。8日後ロシアは日本に宣戦布告を行った。

日露戦争1905年9月に日本の勝利をもって終結し、旅順港は陥落、日本が支配権を確立していた朝鮮半島中国東北部へのロシアの侵攻は失敗に終わった。また、日本は朝鮮を経由して沿海地方へと侵攻するという脅威をロシアに与えた。ポーツマス条約が後に発効し、日本とロシアの双方が満洲から撤退しその支配権を中国に返すことで同意したが、日本は同時に遼東半島の租借権を手にし (旅順港と大連港を含む)、満洲南部にロシアが展開していた満洲鉄道も手にした。日本はさらにサハリン (樺太) の南半分もロシアから獲得した。ロシアは朝鮮への侵攻の恐怖と日本の軍隊による朝鮮人ゲリラの追放により沿海地方の人口の大多数を占めるようになった朝鮮人に対し、土地を没収するよう圧力をかけることとなった。
ソビエト連邦時代

1937年から1939年までの間、ヨシフ・スターリン指導下にあったソビエト連邦は、朝鮮人が日本のスパイとして活動することを恐れ、200,000人以上の朝鮮人をウズベキスタンカザフスタンへと追放した。約100,000人の朝鮮人が強制移住させられる列車の途上で飢餓、病気、寒さで亡くなった。多くの集団の指導者に対して粛清が行われ、高麗人は強制移住以降の15年間中央アジアの外へ旅行することを禁止された。高麗人は朝鮮語を使用することも禁止され、コリョマルロシア語の使用が普及するにつれて朝鮮語の使用頻度も次第に下がっていった。
日ソ国境紛争詳細は「日ソ国境紛争」を参照

日ソ国境紛争はソビエト連邦と日本の間で1938年から1945年まで続いた国境紛争である。

満洲国と朝鮮の支配権を確立した後の日本はソビエト連邦の領土に軍事的な関心を再び持つようになった。日本とソビエト連邦の間の紛争は満洲の境界付近で度々起きた。最初の衝突は沿海地方で起きた。張鼓峰事件は満洲国がソビエト連邦が自国領と主張する地域に対して軍事的な侵攻を試みるものであった。この侵攻はソビエト連邦が北京条約においてロシア帝国とが交わした国境策定に関して認識を誤っているという日本の考え方から行われたものであった。沿海地方は残る国境紛争のすべてが満洲国内で起きたにもかかわらず、常に日本の侵攻を脅威に感じていた。弱体化した日本がその支配領域を満洲国、蒙古聯合自治政府、南サハリンとしたことで、この紛争は第二次世界大戦前に短期間で終了した。
第二次世界大戦

沿海地方は第二次世界大戦においてソビエト連邦と日本双方の戦略的要衝となり、ソビエト連邦と連合国は朝鮮を経由して日本へと侵攻する上で鍵になる土地であると考えたため境界上での衝突は頻繁に起きた。


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