極北の怪異
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『極北のナヌーク』(きょくほくのナヌーク、英語: Nanook of the North)は、1922年にアメリカの映画監督ロバート・フラハティによって製作されたサイレント映画。カナダ北部で暮らすイヌイットの文化・習俗を記録した作品で、映画史上、しばしば初のドキュメンタリー映画と説明される[1]

アメリカ議会図書館がすぐれた映画作品を選び出して半永久的な保存を推奨する制度が開始されたさい、「文化的・歴史的・美的価値がきわめて高い」作品として最初の指定作品25本の1つに選ばれている[2]。日本では当初『極北の怪異』の邦題で公開された。
概要『極北のナヌーク』公開時のポスター

映画の舞台はカナダケベック州北部アンガヴァ半島に暮らすイヌイットの村で、とくに壮年の狩人「ナヌーク」と妻ナイラ、その子どもたちの一家を主人公とする。作品では、1年の大半が極寒の季節となる過酷な環境で、彼らが家族・村人と協力しながら生活をささえる様子が紹介される。

ナヌークは勇敢な狩人で、銛一本で巨大なアザラシに挑み、カヌーや衣服を自分で作り出す技術も持っている。映画は、ナヌークが銃器や電気など文明の利器を拒み、幼い子どもたちにも古くからの生活の知恵を教育しつづける姿を克明に描いてゆく。
あらすじ

ナヌークはウンガヴァ半島に住むイヌイットの族長。妻と三人の子、子犬とともに暮らしている。

夏、ナヌーク達は白人の営む交易所にやってきて獲り貯めた毛皮を売る。子供達は映画の撮影スタッフからもらったパンを食べ、ナヌークは蓄音機に驚いてレコードをかじってみる。

やがて冬が近づくとナヌーク達は流氷の上を身軽に渡り歩きながら魚を捕ったり、海辺に集まっていたセイウチを銛で仕留めたりして食料を得る。

更に寒さが厳しくなる中、ナヌーク達は犬橇で雪原を移動し、雪の塊を積み上げて住居(イグルー)を作る。狩りに出た彼らはアザラシが呼吸の為に水面に上がってくるところを仕留める。その帰路、嵐に見舞われた彼らは無人のイグルーに避難し、食事を取って眠りにつく。
撮影の背景ロバート・J・フラハティ

フラハティは1910年初頭にカナダ太平洋鉄道が開通したさいハドソン湾沿岸部を周遊、そこで厳しい自然に向き合うイヌイットの姿に深く感動して、彼らの生活を記録したいと思うようになった[3]。フラハティは当時普及しはじめていた小型カメラで記録映画を製作しようと考えたが、この時点でフラハティは映画撮影の経験がいっさいなく、ニューヨークの撮影学校で数週間のコースを受けて撮影にのぞんだとされる[4]

まずフラハティは1914年から1915まで現地に入って三万フィートにおよぶ素材を撮影したが、このときは火災によりそのすべてを焼失してしまう[5]

しかしフラハティはふたたび撮影計画を立ち上げ、フランスの毛皮メーカーからの資金援助を得て、1920年から1921年まで現地におもむく[6]。映画は、この2回目の素材をもとに制作された(現在見られるものはさらに1947年にトーキー版として再編集されたものである)[4]

フラハティは、最初の撮影があまりに自分の視点を強調する旅行日誌風だったことを反省し、2回目の撮影では極力イヌイットたちの視点に合わせて撮影したいと考えた[7]。そのため、このときはスタッフがイヌイットの村に長期間住み込み、彼らと生活を共にしながら撮影を行っている[8]
史上初のドキュメンタリー

映画は1922年に公開、日本を含む世界各国で大きな成功をおさめ、フラハティは、さらに『モアナ』(1926)のような厳しい自然環境で暮らす人間の姿をテーマにした作品を相次いで製作した[9]

このころ、映画というものが記録・啓蒙にきわめて大きな役割を果たしうると考えていたイギリスの映画プロデューサー、ジョン・グリアソン (en) は、フラハティの作品を絶賛し、その批評の中で「ドキュメンタリー」という言葉を初めて用いた[10]。『極北のナヌーク』が「世界初のドキュメンタリー」と呼ばれることがあるのは、そのためである[1]
撮影手法銛をかまえる「ナヌーク」

しかし『極北のナヌーク』の撮影手法は、現在多くの人が「ドキュメンタリー」という言葉から連想するものとは大きく異なっている。

まず「ナヌーク」という名前は実在せず、彼の実際の名前「アラカリアラック(Allakariallak)」が観客に受け入れられないと考えたフラハティが創造した、架空の名前である。彼の妻「ナイラ」も同様で、実際の名前は「アリス」だった[9]

さらに「ナヌーク」の一家は本当の家族ではなく、イヌイットの村から募った協力者を同じ家に集めて家族のように撮影しており[11]、狭い氷の住居「イグルー」内での生活も、実際には撮影用に組み立てた大型のセットを使って撮影された[12]

そして映画では「ナヌーク」が蓄音機を初めて見て驚愕するなど「文明」との距離感が繰り返し強調されるが、実際には当時のイヌイットの生活はかなり近代化されており、すでに電気や銃器を利用する村人も多かったことが分かっている[11]
当時の「ドキュメンタリー」本作を上映しているカリフォルニアの映画館(1923年)。宣伝のため狩の様子などを再現した模型が看板の下に並べられている。

現在の感覚からはかけはなれたこうした撮影が行われ、また広く許容されたのは、まず「ドキュメンタリー」という言葉自体が存在せず一般の劇映画との境界があいまいだったこと[13]、そして「ドキュメンタリー」という言葉が登場したあとも、それが現在のニュース報道のように事実を記録・伝達すべきものと考えられていなかったことが背景にあるとされる[10]

ドキュメンタリーという言葉を考案したグリアソンは、その社会的効用がまず何よりも「プロパガンダ」にあると訴え、フラハティのような演出を積極的に容認していた[14](当時「プロパガンダ」にはまだ批判的な語義はなかった[15])。

そのころデューイリップマンの論争をきっかけに英語圏で大きな問題になっていた「一般大衆は十分な情報をもつ知的な有権者たりうるか」という課題に対して、それは映像のもつ力を利用して「大衆に情報を与え、社会の進むべき道を指ししめす」ことによって可能だ[15]、というのがグリアソンの立場であり、彼にとってのドキュメンタリー映画の役割だった[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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