楳図かずお
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楳図 かずお
2010年 台北国際書展にて
生誕 (1936-09-03) 1936年9月3日(87歳)あるいは9月25日
日本和歌山県伊都郡高野町
国籍日本
職業漫画家タレント
活動期間1955年 -
ジャンルホラー漫画SF漫画など
代表作『漂流教室
まことちゃん
わたしは真悟
14歳
受賞

第20回小学館漫画賞
(『漂流教室』ほか一連の作品)

第45回アングレーム国際漫画祭 遺産賞(『わたしは真悟』)

文化庁長官表彰

ミケルッツィ賞 最優秀クラシック作品賞(『わたしは真悟』)

第27回手塚治虫文化賞特別賞

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楳図 かずお(うめず かずお、本名:楳図一雄、1936年9月3日[1][2] あるいは9月25日[3] - )は、日本漫画家タレント作詞家作曲家血液型はO型。初期には山路 一雄やウメヅ カズヲの名義による作品もある。

和歌山県伊都郡高野町に生まれ、奈良県五條市に育つ。1955年に貸本漫画家としてデビュー、『週刊少年サンデー』などに作品を発表。代表作に『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』など。作品は恐怖ものからSFギャグもの、時代劇まで、少年もの、少女もの、青年ものを問わず幅広いが、一般にはホラー漫画の第一人者として知られる。

1995年以降、腱鞘炎などといった理由で漫画は休筆中であり、1990年代後半からはタレント活動を精力的に行っている。東京都武蔵野市吉祥寺南町に住居兼オフィスを構える。
来歴
幼少期

1936年9月3日[1][2] あるいは9月25日[3]和歌山県伊都郡高野町に生まれる。本籍地奈良県五條市だが、父方は一族全部が教員という家系であり、父・公雄も小学校教員をしていたため、幼少期は奈良県の山間部の僻村を転々とした。高野町で生まれたのは、出産の便宜のため。父は囲碁が好きで囲碁大会に奈良県代表としてしばしば出場し、高島忠夫の父とは囲碁友達だった[4]。楳図家の祖先については、(かずおの)曽祖父より前の世代の親族が奈良県外から来たらしいということしか分かっていない[5]

3歳から6歳までは奈良県宇陀郡曽爾村で過ごし、父から地元の伝説民話を聞かされて育つ。6歳からは五條市に住し、東京に出る27歳(1963年)までそこで過ごす。五條市に隣接する和歌山県橋本市は、楳図青年の散歩コースでもあり、橋本市の広報誌に4コママンガ『オテンバ日記』を載せたり(1956年)、橋本駅前に『まことちゃん』の像が建てられたり(2002年)と縁がある。

1947年、小学5年生の時、手塚治虫の『新宝島』を読み、漫画家になることを決意する。初めは手塚を模倣して描いていたが、プロを意識しはじめた中学生時代に手塚調を廃し、初山滋武井武雄など童画家の影響による作風で漫画を描きはじめ、神戸の「改漫クラブ」、青森の「少年少女漫画ルーム」など複数の同人サークルで積極的に活動する。中学時代は『漫画少年』にたびたび投稿していたがなかなか採用されず、往復マンガが一度載ったのを最後に同誌への投稿をやめ、『譚海』や『漫画と読物』などに作品を発表していた[6]奈良県立五條高等学校在学中は音楽美術以外に好きな学科は全くなく、授業中には漫画を描いていた[7]
プロ漫画家として

1955年五條高校卒業。親の言いつけで奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験したが失敗[8]。同年、『森の兄妹』(6月刊。山路一雄名義)、『別世界』(9月刊。共にトモブック社)でプロデビュー。前者は「改漫クラブ」の文通相手だった水谷武子との共作で『ヘンゼルとグレーテル』の漫画化、後者は太古の地球に舞台を取った壮大な叙事詩SF作品。以後、貸本漫画を多く発表し人気作家となる。

1961年、貸本短編誌『虹』29号に発表した『口が耳までさける時』において「恐怖マンガ」という言葉を作った。1963年8月、同じ大阪貸本漫画家の先輩である佐藤まさあきに誘われて上京。池袋にある佐藤の事務所に居候として3年間住む。以後、目白、高田馬場を経て、吉祥寺(現在)に住す。このころ本格的に俳優を志し、年齢を下に詐称して劇団ひまわりの青年部に入り、『兵隊やくざ』(大映1965年)や太田博之の映画やNHKの朝の連続ドラマに出演したこともあるが、劇団の上層部の人間から宗教への入信を勧められたのに嫌気が差して退団した[9]。また、当時俳優志望だった久保新二と同居して毎晩ひとつの布団で寝ていたこともある[10]。ただし久保によると「といっても、乳くり合ってたワケじゃないぞ。オレはもちろん、その頃からナヨナヨして奇抜な服着てた楳図もホモじゃねえから」という[10]

1966年講談社の少女漫画誌『週刊少女フレンド』に連載した『ねこ目の少女』『へび女(英語版)』等がヒットし、恐怖マンガ家として全国的に知られるようになる。この後、『週刊少年マガジン』(講談社)、『週刊少年キング』(少年画報社)等などでは少年向けのSF作品、『猫目小僧』など恐怖ものを連載。最も多忙な時期で月刊誌・週刊誌あわせて5本の連載作品を持っていた。

1971年、主たる作品発表の場を、『週刊少年サンデー』(小学館)にしぼる。1975年、『漂流教室』ほか一連の作品で第20回小学館漫画賞受賞。同年、自作自演のLP『闇のアルバム』(CBSソニー)を発表。また、この後、ギャグ作品『まことちゃん』の連載とあいまって、バンド活動を展開する。作詞家として、郷ひろみ近田春夫楽曲の作詞を手がけたこともある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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