凡例楯岡 満茂
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文16年(1547年)
死没寛永16(1639年)
改名楯岡満茂 → 赤尾津満茂 → 本城満茂 → 満慶
主君最上義光 → 家親 → 義俊
藩出羽国山形藩士
氏族楯岡氏 → 赤尾津氏 → 本城氏
楯岡 満茂(たておかみつしげ、本城満茂 天文16年(1547年) - 寛永16(1639年)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。最上氏の家臣。楯岡氏の当主。豊前守を称す。 最上氏の庶流の一族で、出羽国楯岡城(山形県村山市楯岡)を領していた。1586年には小野寺義道の侵攻を最上義康と共に有野峠の戦い
生涯
1612年の最上氏の分別帳によれば、満茂の所領は4万5000石と最上家中における最高の禄高であった。しかし1622年、最上氏が幕命により改易されると、その身柄を酒井忠世に預けられた。その後、赦されて忠世に仕え、客分として1200石を給される。この時その一族郎党も召し抱えられ、酒井家中で最上衆と呼ばれている。また、本城満慶と改名した。甥の親茂を継嗣としたが急逝したため、姪の子の満旨に跡を継がせた。1639年死去と本城家譜に記されている。墓所は前橋市の長昌寺[2][3]。
子孫の本城氏は雅楽頭酒井家(前橋藩・姫路藩主家)の重臣として続いた[4]。 [脚注の使い方]
脚注
^ “ ⇒本荘城のあらまし”. 由利本荘市、修身館. 2014年5月9日閲覧。
^ ⇒前橋市長昌寺公式サイト『長昌寺と本城氏の絆』
^ なお、新城氏墓所は前橋市指定史跡となっているが、満茂の墓石は現存しない。1811年に姫路藩重臣の本城満主が調査した時点では残っていたが、明治時代後期の寺院火災の混乱で失われたと考えられている。
^ ⇒最上義光歴史館『最上家臣余録 ?知られざる最上家臣たちの姿?【本城満茂 (11)】』
更新日時:2021年4月26日(月)11:10
取得日時:2021/09/29 15:25