楯の会
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「祖国防衛隊」はこの項目へ転送されています。在日朝鮮人団体については「祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}三島由紀夫 > 楯の会

楯の会
正式名称楯の会
組織形態民間防衛組織(民兵
事務局所在地 日本
東京都中央区銀座8丁目4-2小鍛冶ビル(1968年10月5日-1969年10月12日)
東京都新宿区十二社316番地(西新宿4丁目 32-12)小林荘8号室(1969年10月12日-1970年11月25日)

人数約100名
隊長三島由紀夫
目的日本の伝統文化の死守
活動内容左翼革命勢力の間接侵略に対する防備
活動領域関東地域
設立年月日1968年10月5日
前身祖国防衛隊
設立者三島由紀夫
廃止年月日1971年2月28日
後身三島森田事務所(MM事務所)
蛟龍会
一水会
上位組織学生長・持丸博(初代)
森田必勝(2代目)
下位組織班員
関連組織論争ジャーナル
日本学生同盟
全国学生自治体連絡協議会
関連団体生長の家
テンプレートを表示

楯の会(楯の會、たてのかい)とは、間接侵略に備えるための民間防衛組織として三島由紀夫が結成した組織[1][2][3]。前身組織名は「祖国防衛隊」(Japan National Guard)で、日本の文化伝統を「」で死守する有志市民戦士共同体として組織された[4]

前身の「祖国防衛隊」は、基幹産業企業構成員1万人規模の民間防衛組織を目指し、その幹部となる民間将校団「中核体」100名を養成していたが、防衛隊構想の軌道修正と共に、この「中核体」の隊員が「楯の会」の構成員として移行した[5][6]。会員資格は、1か月以上の自衛隊体験入隊で軍事訓練を脱落せず終了した者で、おもに民族派の学生を中心として構成され、10人以下1単位の「班」員として活動した[1]

「楯の会」の名称は、万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」(詠み人:今奉部與曾布〈いままつりべのよそふ〉)と、江戸末期の歌人・橘曙覧の「大皇の 醜の御楯と いふ物は 如此る物ぞと 進め真前に」の2首に由来する[3][6]
経過「三島事件#三島由紀夫と自衛隊」も参照
昭和41年・42年
論争ジャーナルと日学同

1966年(昭和41年)、中国文化大革命全共闘運動などが活発化していたこの年、間接侵略に対処できる民兵組織の必要性を考えていた三島由紀夫自衛隊体験入隊希望し、10月頃から防衛庁に打診するが断られ、毎日新聞社常務の狩野近雄に仲介を依頼し、防衛庁事務次官・三輪良雄や元陸将藤原岩市などと接触し口利きを求め続けていた[7][8][9]

そんな三島の元に、民族派雑誌『論争ジャーナル』の創刊準備をしている青年の話を小沢開策から聞いた林房雄の紹介で、12月19日に同誌編集部の万代潔(平泉澄門人明治学院大学卒)が訪ねて来た[10][11]。万代を気に入った三島は、同誌を中心とする民族派学生たちと親交を結ぶようになる[10]

1967年(昭和42年)1月5日に、万代潔を副編集長、中辻和彦(平泉澄門人で明治学院大学卒)を編集長とする月刊雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、三島は無償で同誌に寄稿することを約束し、2人は3日に1度の割で三島を訪ねた[12][13]。『論争ジャーナル』というタイトルは、当時の左翼学生が必ず読んでいた『朝日ジャーナル』に対抗したものだった[3]

1月27日には、同じく平泉澄の門人で『論争ジャーナル』のスタッフをしている持丸博早稲田大学生)も三島宅を訪問し、自身の所属する「日本学生同盟」(日学同)が2月に創刊する機関紙『日本学生新聞』への寄稿を依頼し、三島は快諾した[14][15]

やっと防衛庁から自衛隊体験入隊許可を得た三島は、本名の「平岡公威」として4月12日から 5月27日、単身で46日間体験入隊した。久留米陸上自衛隊幹部候補生学校陸上自衛隊富士学校に赴き、山中踏破、山中湖露営などを体験後、富士学校幹部上級課程(AOC)に属し、レンジャー課程を終え、習志野第一空挺団に移動し、基礎訓練(降下訓練を除く)を体験した[16][17][18]

論争ジャーナル組、日学同の学生たちも自衛隊体験入隊を希望する中、三島は民兵組織の立ち上げを本格的に企図し、持丸博を通じて日学同の付属組織「早稲田大学国防部」(4月に結成)からの選抜協力を要請した[9][19]。こうして、論争ジャーナル組、日学同と三島の三者関係が出来上がっていった[8][15]
「祖国防衛隊」構想

6月19日、六本木喫茶店「ヴィクトリア」で、早稲田大学国防部の代表幹部と三島の会見が行われ、森田必勝(早大教育学部、日学同)と三島は初めて顔を合わせた[19]。この会合で早大国防部の自衛隊体験入隊の日程と場所が決まった[19][20]

同年7月2日から1週間、早大国防部の森田必勝阿部勉(早大法学部)、伊藤好雄(早大政経学部)、宮崎正弘(早大教育学部)、斉藤英俊(早大教育学部)、山本之聞(早大政経学部)、松村久義、持丸博ら13名が北海道の自衛隊北恵庭駐屯地で体験入隊を行なった[19][21][22]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:283 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef