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楢橋 渡[1](ならはし わたる、1902年(明治35年)3月22日[2] - 1973年(昭和48年)11月17日[3])は、日本の弁護士[1]、政治家。国民民主党最高顧問[2]。内閣書記官長・運輸大臣を務めた。その風貌と弁舌から怪物と呼ばれた[2]。元衆議院議員の楢橋進は長男。 福岡県三井郡国分村(現・久留米市)に生まれる[1]。農業・楢橋浅吉の長男。三井郡立准教員養成所を卒業後、小倉師範学校を受験するも、色盲のため不合格となり、煩悶の末出奔する。北九州鞍手郡炭坑にて労働に従事する[1]。その後上京し、1923年独学で弁護士試験に合格。最年少(20歳)合格者ということで各新聞に取り上げられた。自由法曹団に所属し、大衆のための弁護士として活動した。 1926年より、東京弁護士会・日本弁護士協会より陪審法調査のためフランスへ派遣され、リヨン大学・ソルボンヌ大学で学ぶ。その後、東京市が市電を買収する際にフランスで起債した公債の償還を巡るトラブルが発生すると(東京市仏貨公債事件
来歴・人物
帰国後は1940年に、当時仏財閥の傘下にあった「北京飯店」を買収し社長となる。またこの頃沢田廉三(後の国連大使)を介して幣原喜重郎に会っている。国際情勢について意見交換を行う中で、強い印象を幣原に与えたようである。1942年、反戦・反東條の立場から翼賛選挙に非推薦で旧福岡3区にて立候補し、最高点で当選した。以後通算当選7回[3]。改進党総裁重光葵(中央)、三木武夫(左)とともに(1952年)
戦後の1945年、幣原内閣が発足すると、疎開先の長野県からラジオの尋ね人番組を通して呼び出され、内閣法制局長官に就任する、翌1946年には内閣書記官長となり、幣原首相を支えた。1947年には民主党の結成に参画し、分裂後は野党派に属し、最高委員に選出される。その後、国民民主党でも最高委員を務め、公職追放期間を経て、1952年改進党から国政に復帰。