くすだ ひろし
楠田 浩之
キネマ旬報社『キネマ旬報』第122号(1955)より
生年月日 (1916-04-14) 1916年4月14日
没年月日 (2008-09-13) 2008年9月13日(92歳没)
職業撮影技師
ジャンル映画
活動期間1934年 - 1967年
活動内容1934年 松竹蒲田撮影所入社
1936年 松竹大船撮影所異動
1943年 技師昇進
配偶者楠田芳子(1944年 - 2013年)(死別)
著名な家族木下恵介(義兄)
木下忠司(義兄)
楠田泰之(息子)
主な作品
『二十四の瞳』
『野菊の如き君なりき』
『カルメン故郷に帰る』
楠田 浩之(くすだ ひろし[1]、1916年4月14日 - 2008年9月13日[1])は、日本の撮影技師である。名の読み「ひろゆき」は誤りである[1]。 1916年(大正5年)4月14日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1]。 旧制・京華中学校(現在の京華高等学校)を卒業する[1]。1934年(昭和9年)、松竹蒲田撮影所に入社、撮影部に配属されて撮影助手となる[1]。小原譲治、厚田雄春らに師事する[2]。1936年(昭和11年)、撮影所が蒲田から新設の松竹大船撮影所に引越し、楠田も異動になる[2]。 1943年(昭和18年)、技師に昇進し、木下恵介監督の第1作『花咲く港』で、木下とともに一本立ちする[1][2]。また、翌1944年(昭和19年)に木下の妹の芳子(のちに脚本家として活動する)と結婚する。以降、1951年(昭和26年)の日本最初のカラーフィルムによる長篇劇映画『カルメン故郷に帰る』、『二十四の瞳』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)など、キャリアのほとんどが木下作品で埋め尽くされる[1][2]。 1959年(昭和34年)、木下恵介監督の『楢山節考』で芸術選奨を受賞する[1]。 2008年(平成20年)9月13日、死去した[1]。満92歳没。 息子にテレビプロデューサー、演出家の楠田泰之がいる。 特筆以外はすべて松竹大船撮影所製作作品である。
人物・来歴
フィルモグラフィ
『人生のお荷物』 : 監督五所平之助、撮影小原譲治、松竹蒲田撮影所、1935年 - 撮影助手
『朧夜の女』 : 監督五所平之助、撮影小原譲治、1936年 - 撮影補
『新道 前篇朱実の巻』 : 監督五所平之助、撮影小原譲治、1936年 - 撮影助手
『すみだ川』 : 監督井上金太郎、撮影厚田雄春、1942年 - 撮影補助
『花咲く港』 : 監督木下恵介、1943年 - 技師昇進第1作
『生きてゐる孫六』 : 監督木下恵介、1943年
『歓呼の町』 : 監督木下恵介、1944年
『大曾根家の朝』 : 監督木下恵介、1946年
『わが恋せし乙女』 : 監督木下恵介、1946年
『結婚』 : 監督木下恵介、1947年
『不死鳥』 : 監督木下恵介、1947年
『女』 : 監督木下恵介、1948年
『肖像』 : 監督木下恵介、1948年
『破戒』 : 監督木下恵介、松竹京都撮影所、1948年
『お嬢さん乾杯』 : 監督木下恵介、1949年
『新釈四谷怪談』 : 監督木下恵介、松竹京都撮影所、1949年
『破れ太鼓』 : 監督木下恵介、松竹京都撮影所、1949年
『婚約指環』 : 監督木下恵介、松竹大船撮影所・田中絹代プロダクション
『善魔』 : 監督木下恵介、1951年
『カルメン故郷に帰る』 : 監督木下恵介、1951年
『少年期』 : 監督木下恵介、1951年
『海の花火』 : 監督木下恵介、1951年
『カルメン純情す』 : 監督木下恵介、1952年
『日本の悲劇』 : 監督木下恵介、1953年
『女の園』 : 監督木下恵介、1954年
『二十四の瞳』 : 監督木下恵介、1954年
『ママ横むいてて
『遠い雲』 : 監督木下恵介、1955年
『野菊の如き君なりき』 : 監督木下恵介、1955年
『子供の眼