楠正儀
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 凡例楠木 正儀
『名誉三十六合戦』より『楠正儀』、歌川国芳。当世第一の名将として、当時新しい武器の鑓()を自ら振るう正儀。なお、画中の場面は康暦2年(1380年)南朝総大将たる活躍としているが、史実ではこのとき北朝方。
時代南北朝時代
生誕不明(推測:元弘3年/正慶2年(1333年)?)
『太平記』流布本:元徳2年(1330年)
『太平記』天正本:元弘元年/元徳3年(1331年)
死没元中5年/嘉慶2年(1388年)もしくは元中6年/康応元年(1389年)ごろ[1]
改名(虎夜刃丸(とらやしゃまる、幼名)?[2]→)正儀
別名通称:楠木判官正儀(『後愚昧記[3])、伝・次郎左衛門(『太平記』流布本31巻[4]
戒名伝・正巌孝儀大居士(『如意輪寺旧記』)[5]
伝・小光寺秀芳義瑞大居士(『河内名所図会』)[5]
墓所伝・大阪府千早赤阪村(『河内名所図会』)[5]
官位南朝:左衛門少尉[1]左馬権頭[6]河内守[6]、大夫判官(五位検非違使尉)[7]和泉守護[8]左馬頭[1]右兵衛督[9]左兵衛督[1][10]
北朝:左兵衛督[11]散位[12]中務大輔[1]
南朝(帰参後):左兵衛督[13]参議[1]
幕府室町幕府河内和泉摂津住吉郡守護
主君後村上天皇長慶天皇足利義満→長慶天皇→後亀山天皇
氏族楠木氏(称・橘氏後裔)
父母父:楠木正成、母:不明[注釈 1]
兄弟正行正時
妻正室:不明(伝・伊賀局篠塚重広の娘)[15]
正勝正元正秀、正澄、正平
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楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代武将公卿楠木氏棟梁。

南朝総大将として北朝からを4度奪還。また、を用いた戦術を初めて普及させ、兵站調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にもかかわらず左兵衛督中務大輔等の足利将軍家御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内和泉摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後には南朝に帰参し、議政官である参議に任官している。正儀の南朝への攻撃と復帰は南朝内部の和平派伸長につながり、和平派の後亀山天皇の即位と南北朝和約につながったと評価されている。
概要

1330年代初頭、後醍醐天皇寵臣である武将楠木正成の三男として誕生する。延元元年/建武3年(1336年5月25日に父を湊川の戦いで失う。さらに、兄の正行正時も、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日四條畷の戦いで戦死したため、急遽楠木氏棟梁と南朝総大将の地位を継ぎ、幕府を代表する名将高師直高師泰兄弟と戦った(→初陣)。1月中旬、南北で第一回の和平交渉があったが破断(→和平交渉(1348年))。1月下旬には南朝臨時首都吉野行宮が陥落して国家滅亡の危機に陥るが、2月8日に高兄弟の軍に一矢報い、辛くも撤退させた(→吉野行宮陥落)。この後、正儀は巻き返して一定の戦果を収めるも、室町幕府も将軍足利尊氏の弟直義の養子(尊氏の非嫡子)足利直冬ら若い世代の武将を起用して、夏・秋に再び攻勢をかけたため、依然として苦しい戦いが続いた(→足利直冬との戦い、→続く戦乱)。

正平4年/貞和5年(1349年)閏6月、幕府では執事高師直と直義の間の対立が深まり(観応の擾乱)、正平5年/観応元年(1350年)10月には直義が南朝方について勢力挽回を画策、正平6年/観応2年(1351年)2月17日には打出浜の戦いで直義が南朝方として幕府に勝利、高兄弟も暗殺されたため、劣勢の南朝は一時的に勢力を回復した(→足利兄弟の内紛)。直義の仲介で南北朝間初の本格的な和平交渉が進み、和平派筆頭の正儀は南朝方の窓口として交渉を取り持ったが、後村上天皇や公卿洞院実世、正儀の同族で副将の和田正武ら南朝の要人はまだ主戦派が多く、中立派で南朝の支柱准大臣北畠親房も直義との政治議論が相容れなかったため、結局は5月16日に正式に破断した(→和平交渉(1351年初))。和睦失敗で南朝方に対して一番怒り狂ったのが正儀で、直義が後村上天皇を討つなら自分も幕府側に寝返って加勢するとまで口走ったという噂さえ立つなど、父の正成と似た性格だったことがうかがえる。同年10月24日、今度は将軍尊氏が南朝に降るという奇策で弟の直義に勝利し、一時的に南北は合一、年号も南朝の正平に統一され、正平の一統が成立した(→正平の一統)。

正平7年(1352年)閏2月20日、尊氏が関東遠征中の隙を狙い、旧南朝方は主権の完全回復を目指し、正儀・和田正武・伊勢国司北畠顕能らが京都を制圧、天下は再び南北朝に分かれた(→第一次京都攻防戦)。


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