楠木正行
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 凡例楠木 正行
『楠正行弁の内侍を救ふ図』(水野年方画)より
時代南北朝時代
生誕生年未詳
死没正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日
改名(伝・多聞丸→)楠木正行[注釈 1]
別名通称:楠木金吾[2]、楠木帯刀(『園太暦』[1]
尊称:小楠公
墓所伝・小楠公御墓所大阪府四條畷市雁屋南町)、
官位南朝:左衛門少尉従五位下、河内守河内国守護[注釈 2]帯刀舎人(帯刀左部領?)
明治政府:贈従三位[3]贈従二位[3]
主君後村上天皇
氏族楠木氏(称・本姓橘氏
父母父:楠木正成、母:不明[注釈 3]
兄弟正行、正時正儀
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楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代南朝後村上天皇に仕えた武将楠木氏棟梁。正成嫡男で、正時正儀の兄。南朝左衛門尉河内守河内国守護[注釈 2]帯刀舎人贈従二位。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝期の代表的名将。「大楠公」正成に対し小楠公(しょうなんこう)と尊称される。
概説

生年や幼少期の実態は不明だが、後村上天皇が即位した翌年の延元5年/暦応3年(1340年)から史上に現れ、南朝の河内守・河内守護として河内国大阪府東部)を統治した。河内守となって7年間は戦いを一切行わなかったが、これには、主戦派として幕府と十全に戦うために力を蓄えていたのだという『太平記』史観に基づく旧説と、本来は父の正成・末弟の正儀と同様に和平派であり幕府との戦いを好まなかったのではないかという岡野友彦の新説がある。いずれにせよ、興国5年/康永3年(1344年)初頭、南朝の脳髄である公卿・歴史家北畠親房が、遠征先の東国から吉野行宮に帰還し、興国7年/貞和2年(1346年)末までに和平派の首魁という説もある左大臣近衛経忠を失脚させて(藤氏一揆)、准大臣として南朝運営の実権を握ると、正行は、好むと好まざるとに関わらず、幕府との戦いの矢面に立つことになった。

正平2年/貞和3年8月10日1347年9月15日)、兵を起こした正行は、寡兵でもって北朝室町幕府の勇将細川顕氏山名時氏らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」(「人智を超越した事象である」)と畏怖された。岡野によれば、親房が幕府の実質的指導者足利直義(将軍尊氏の弟)と執事高師直の不和を知っていた史証があることから、正行が寡兵にもかかわらず挙兵したのは、幕府の内部瓦解を狙った親房の作戦だったのではないかという。また、藤田精一生駒孝臣は、正行の戦闘経路が、元弘の乱1331年 - 1333年)での父のそれをほぼ踏襲していることを指摘する。藤田によれば、初陣での紀伊国和歌山県)攻略は父と同様に兵站・情報網の要地を狙った戦略であるという。生駒は、正成の再来であるかのような正行の軍事行動は、北朝・幕府に恐れを抱かせたであろうと推測する。正行は同年内の戦いでは無敗であり、二度の大合戦から細々とした局地戦まで全てに完勝した。南朝の各地方の方面軍もまた、正行の中央での活躍に合わせて、味方への鼓舞と敵への調略を活発化させた。

しかし、正平3年/貞和4年1月5日1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した。この戦いは、『太平記』では開戦前から討死を前提とした玉砕だったと物語られ、悲壮に描かれた。だが、『太平記』の玉砕説は複数の研究者から疑問視されており、特に生駒は、それまで不敗であることや、同族の武将の書簡などを見る限り、歴史上の正行はこの戦いでも勝利を確信して開戦したのではないかとしている。楠木兄弟の戦死と直後の吉野行宮陥落により、師直と直義との間の政治権力の均衡が崩れ、室町幕府最大の内部抗争である観応の擾乱1350年 - 1352年)が発生することになった。

史料に乏しく、軍事的能力を高く評価された武将という以外の歴史的人物像は不明瞭である。一方、軍記物語『太平記』(1370年頃完成)の「桜井の別れ」の物語や、川に溺れた敵兵の命を救ったという伝説などが広まったことで、後世には孝子・忠臣・博愛の鑑と見なされるようになった。救敵伝説は、日本赤十字社草創期に広報活動や教育の材料として用いられた。また、明治時代には明治天皇から追悼の勅語を受け、従二位を追贈されて、大阪府四條畷市四條畷神社の主祭神となった。
生涯
挙兵前
誕生狸の妖怪を退治する若き楠木正行。月岡芳年『和漢百物語』「楠多門丸正行」(元治2年(1865年))。

鎌倉時代末期、本姓橘氏を自称する河内国大阪府東部)の御家人(将軍に直属する特権身分の武士)・有徳人(豪商)の楠木正成[注釈 4]の長男として誕生した。

確実な生年は不明で、以下の諸説がある。

嘉暦元年(1326年)説 - 軍記物語太平記』流布本巻16「正成首送故郷事」に、延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦い直後の正行について、「今年十一歳に成りける帯刀」[6]とあり、逆算すれば嘉暦元年(1326年)生まれとなる[7]

元亨3年(1323年)説 - 『太平記』流布本巻25「藤井寺合戦の事」では、正平2年/貞和3年(1347年)時点で「年積りて正行已に二十五」[8]とあり、逆算すれば元亨3年(1323年)と生まれとなる[7][注釈 5]。つまり、正行の生年は、『太平記』内部ですら自己矛盾を起こしている[7]

元応2年(1320年)ごろとする説 - 延元5年/暦応3年(1340年)に正行自身が建水分神社に奉納した扁額に「左衛門少尉」の自筆があり、既に相当の官位に昇っている[9][7]


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