楊貴妃
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「楊貴妃」のその他の用法については「楊貴妃 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

楊玉環
楊貴妃
壁画に描かれた楊貴妃

全名楊玉環
鴎法(字)
玉奴、玉環(小字)
称号楊貴妃
道号:太真
出生開元7年6月1日
719年6月22日
蜀州
死去天宝15載6月14日
756年7月15日
馬嵬
配偶者寿王李瑁
 玄宗
父親楊玄?
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楊貴妃

楊 貴妃(よう きひ、ヤン・グイフェイ)は、中国代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれている。世界三大美人の一人で古代中国四大美人西施王昭君貂蝉・楊貴妃)の一人とされている。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性だった。また、才知があり琵琶を始めとした音楽舞踊に多大な才能を有していたことでも知られている。
生涯「楊貴妃図」高久靄静嘉堂文庫美術館

以下、生涯についての記述は、『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』によるものとし、それ以外は出典を表記する。
出生楊貴妃の像(華清池)

蜀州出身。本籍地は蒲州永楽県本貫を弘農楊氏とする一部史料もあるが、竹村則行は、「『太真外伝』に楊貴妃の出自を『弘農華陰人』とするのは全くの附会である。弘農楊氏といえば当世の名族であり、加えて玄宗元献皇后楊氏が正真正銘の『華州華陰人』であるところなどから混同や附会を招いたのであろうか。伝えられる三姉妹や楊国忠の粗野な言動からも、楊氏一族が名族の出身だとはとても思われない」と評している[1]北魏冀州刺史の楊順(楊播楊椿の弟)の末裔にあたる。蜀州司戸の楊玄?の四女。姉に後の韓国夫人?国夫人秦国夫人がいる。楊玄?が蜀州の司戸参軍在任中の6月1日に生まれたと伝えられる。四川には、「落妃池」という楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池がある。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄?の家で育てられた。

『定命録』によると、蜀に住んでいた時、張という姓の山野に住む隠士が彼女の人相を見て、「この娘は、将来、大富大貴になるであろう。皇后と同等の尊貴にあるだろう」と予言し、さらに、又従兄の楊国忠の人相を見て、「将来、何年も朝廷の大権を握るであろう」と告げたという説話が残っている。

開元天宝遺事』によると、楊玄?は若い頃に持っていた刀は、猛獣や盗賊が近づくと、警告するように、刀が音を発したと伝えられる。また、楊貴妃が父母と別れる時、寒い日であったので、涙が紅く凍ったという説話を伝えている。

生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、また、容州の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄?に売られたという後世の俗説もある[2][3]
寿王妃から女冠へ

開元23年(735年)、玄宗武恵妃のあいだの子の寿王李瑁(第十八子)の妃となる[4]。李瑁は武恵妃と宰相の李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、開元25年(737年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官の高力士の薦めで李?(後の粛宗)が皇太子に冊立された。

開元28年(740年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて一時的に女道士(女冠)となった(このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。

楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる[5]
貴妃となる浮世絵師、細田栄之によって描かれた楊貴妃

天宝4載(745年)、貴妃に冊立される。『楊太真外伝』によると、初めての玄宗との謁見の際、霓裳羽衣の曲が演奏され、玄宗は「得宝子」という新曲を作曲したと伝えられる。

父の楊玄?は兵部尚書、母の李氏は涼国夫人に追贈され、また叔父の楊玄珪は光禄卿、従兄の楊銛(楊玄珪の子)は殿中少監、従兄の楊リ(楊玄珪の子)は?馬都尉に封じられる。さらに、楊リは玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなった。楊銛・楊リと3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は門を並ぶほどであったと伝えられる。

天宝5載(746年)には嫉妬により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。しかし玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであった。この時、高力士はとりなして楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は太華公主の家を通じて夜間に後宮に戻ってきた。玄宗は楊貴妃が戻りその罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられる。それ以後さらに玄宗の寵愛を独占するようになった。その後、范陽・平盧節度使安禄山の請願により、安禄山を養子にして玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っている。

天宝7載(748年)には3人の姉も国夫人を授けられ、毎月10万銭を化粧代として与えられた。楊銛は上柱国に、また従兄の楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。

玄宗が遊幸する時は楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には高力士が手綱をとり鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。

天宝9載(750年)にまた玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返される(『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられる)。しかし吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。『楊太真外伝』によると、それ以降さらに愛情は深まったとされる。

天宝10載(751年)、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山を湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。しかしその後も安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため醜聞が流れたという[6]

天宝11載(752年)、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握った。この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・?国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。また楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。

天宝13載(754年)、楊貴妃の父の楊玄?に太尉・斉国公、母の李氏に梁国夫人が追贈され、叔父の楊玄珪は工部尚書に任命される。楊一族は唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきた。
安史の乱と最期「馬嵬駅の悲劇」も参照楊貴妃の墓(興平市)

天宝14載(755年)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子李亨(後の粛宗)に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・?国夫人の説得を受けた楊貴妃は土を口に含んで自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守った。

翌天宝15載(756年)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。6月に玄宗は首都長安を抜け出し蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃・楊国忠・高力士・李亨らが同行することになった。

しかし、馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)に到着すると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言により、やむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。

『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死させられた。この時、南方から献上のライチが届いたため、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられている。陳玄礼らによって、楊の死が確認され、遺体は郊外に埋められた。さらに安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられる。

玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎李揆からの反対意見により中止となった。しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。


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