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出典検索?: "楊溥" 十国呉
睿帝 楊溥
呉
第4代王(皇帝)
王朝呉
在位期間武義2年6月19日 - 天祚3年10月5日
(920年7月7日 - 937年11月10日)
都城江都
姓・諱楊溥
諡号高尚思玄弘古譲皇帝
睿皇帝
生年光化3年(900年)
没年昇元2年12月28日
(939年1月21日)
父太祖
后妃王皇后
陵墓平陵
年号順義 : 921年 - 927年
乾貞 : 927年 - 929年
大和 : 929年 - 935年
天祚 : 935年 - 937年
楊 溥(よう ふ)は、五代十国時代の「呉」の第4代(最後)の王(皇帝)。太祖(楊行密)の四男。 兄の高祖(楊隆演)が呉国王になった時に楊溥は丹陽郡公に封ぜられた。 武義2年(920年)、高祖が死去すると楊溥は徐温に次の「呉国王」に迎えられた。順義7年(927年)、楊溥は呉の国王に即位した。 しかし、この時の「呉」は、全ての実権を徐温・徐知誥父子に握られており、高祖と楊溥は実際は傀儡の王だった。 その間、徐氏父子による国の簒奪の準備が密かに進められていた。 天祚3年(937年)、楊溥は李?(徐知誥)に帝位を禅譲し、ここに「呉」は滅亡した。 翌年に楊溥は死去し、睿皇帝と諡された。 『十国春秋』巻3によれば、南唐建国後、呉の宗族達は泰州に設けた「永寧宮」に軟禁された。 厳重な警備に、軟禁された楊氏の宗族は婚姻もままならず、宗族の男女同士で慰め合ったという。 後周の世宗(柴栄)が淮南に遠征し、楊氏一族を招こうとすると、南唐の2代皇帝の元宗(李m)は園苑史の尹廷範を遣わして、楊氏一族を京口に迎えようとした。 ところが尹廷範が独断で楊溥の弟2人を含む男子60人以上を殺害、女子だけを連れて戻った。その所行に李mは激怒して尹廷範は腰斬にされた。こうして楊氏は滅亡した。 先代
生涯
その後の楊氏
家族
妻妾
王皇后
男子
弘農王 楊l
江夏王 楊?
宜春王 楊?
女子
上饒公主(南唐の元宗李mの弟の李景遷の妻)
関連項目
南唐
李?(徐知誥)
徐温
五代十国時代
呉
李m
高祖呉 (十国) の第4代王/皇帝
920年 - 937年次代
滅亡