楊洲周延
[Wikipedia|▼Menu]
豊原周延筆「竹のひと節 本朝二十四孝 狐火」、3枚揃大判錦絵

楊洲 周延(ようしゅう ちかのぶ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:楊洲 周󠄀延󠄂、天保9年8月8日[1]1838年9月26日〉 - 大正元年〈1912年9月29日)とは、江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。作画期は幕末動乱期の混乱を挟みつつも文久頃から明治40年(1907年)頃までの約45年に及び、美人画に優れ3枚続の風俗画を得意とした。3枚続錦絵,世上各国写画帝王鏡,橋本周延 画,明治12年4月
来歴
生い立ち

歌川国芳三代歌川豊国及び豊原国周の門人。は橋本、通称は作太郎、は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す。

越後国高田藩(現新潟県上越市)江戸詰の下級藩士である橋本弥八郎直恕(なおひろ、家禄5石6斗2人扶持)の長男として生まれる。ただし、出身地が高田と江戸のどちらかは不明[2]。弥八郎は中間頭を務め、目付を兼任した。文久2年(1862年)の記録によれば、25歳の周延も「帳付」(家禄10石2人扶持高銀3枚)という役職についている[3]。周延は、幼い頃に天然痘にかかりあばた顔だったため写真嫌いで、亡くなった際には写真は1枚もなかったという[4]

幼少時は狩野派を学んだようだが、その後浮世絵に転じて渓斎英泉の門人(誰かは不明)につき[5]嘉永5年(1852年)15歳で国芳に絵を学んで、芳鶴(2代目)を名乗る[5](有署名作品は未確認)。文久元年(1861年)国芳が没すると三代目豊国につき[5]、二代目歌川芳鶴、一鶴斎芳鶴と称して[6]浮世絵師となった。さらに豊国が元治元年(1864年)12月に亡くなると、豊国門下の豊原国周に転じて[7]周延と号した[5]
神木隊士として

慶応元年(1865年)、幕府の第二次長州征討に従軍し、行軍する藩士らの様子を「長州征討行軍図」で色彩豊かに描いている。慶応3年(1867年)橋本家の家督を相続した。同年5月6日[8]、国周が日本橋音羽町に建てた新宅開きの日に、酔った河鍋暁斎が国周の顔に墨を塗りたくって大騒ぎとなった。この時、怒った周延が刀を抜いて暁斎に切ってしまうぞと飛びかかり、暁斎は垣根を破って逃げ、中橋の紅葉川の跡に落ちてドブネズミのようになったという[9]。錦絵では慶応3年正月刊の豊原国周の「肩入人気くらべ」(大判3枚続)中に人物を補筆したのが早いものであろう。[10]

幕末の動乱期には高田藩江戸詰藩士が結成した神木隊に属し、慶応4年(1868年)5月上野彰義隊に加わる。8月朝日丸品川沖を脱走、すぐに長鯨丸に乗り換え、11月北海道福島に上陸、陸路で箱館を目指し、翌1月5日亀田村に到着。榎本武揚麾下の滝川具綏指揮第一大隊四番小隊のもとで官軍と戦ったが、3月の宮古湾海戦において回天丸に乗り込んで戦い重傷を負う。戊辰戦争終結後に降服、未だ傷が癒えていなかったため鳳凰丸で明治2年(1869年)8月に東京へ送られ、高田藩預かりとなった。故郷の高田で兵部省よりの禁錮50日、高田藩から家禄半知または降格、あるいは隠居廃人の処分を受けた。この時、高田の絵師・青木昆山らと交流を深めている。
明治後の再デビュー

その後、いつ頃かは不明だが東京に戻る[11]明治10年(1877年)から明治13年(1880年)には上野北大門町におり以降は作画に精励した。当初は武者絵や「征韓論之図」、「鹿児島城激戦之図」などといった西南戦争の絵を描いて評判を取る。明治10年代からは宮廷画を多く描いており、晩年にかけて大判3枚続の「皇后宮還幸宮御渡海図」、「皇子御降誕之図」、「今様振園の遊」などを残す。明治15年(1882年)には橋本周延として第1回内国絵画共進会に出品した作品が褒状を受けている。なお、明治15年には明治天皇及びその家族を錦絵化することは禁止された。また、明治17年(1884年)の第2回内国絵画共進会では「人物」、「景色」が銅章を受けている。同年から明治24年には湯島天神町3丁目1に住んでいた。明治28年(1895年)から明治30年(1897年)にかけて、江戸っ子が知らない江戸城の「御表」と「大奥」を3枚続の豪華版の錦絵で発行、江戸城大奥風俗画や明治開化期の婦人風俗画などを描き、江戸浮世絵の再来と大変な人気を博した。代表作として「真美人」大判36図、「時代かがみ」、「大川渡し舟」などの他、「千代田の大奥」107枚、「千代田の御表」115枚(3枚続、5枚続、6枚続もある)、「温故東之花」などの江戸時代には描くことができなかった徳川大奥や幕府の行事を記録したシリーズ物は貴重な作品として挙げられ、特に「千代田の大奥」は当時ベストセラーとなった。なお「千代田の大奥」には種本が存在する。永島今四郎・太田義雄『朝屋叢書 千代田城大奥 上下』(朝野新聞社、1892年)がそれで、「千代田の大奥」の個々の錦絵に付けられた画題と、『千代田城大奥』の項目が一致する[12]。明治30年の第一回日本絵画協会共進会に出品し、三等褒状を受けている。

明治維新後、華族および新政府の高官の夫人や令嬢は、「外国と対等に付き合うには女性も洋服を着なければならない」と公の場で華やかなロングドレスを身に纏うようになった。周延は、女性の注目を集めたこのニューファッションを取上げて錦絵に数多く描いた。例として「チャリネ大曲馬御遊覧ノ図」や「倭錦春乃寿」、「女官洋服裁縫之図」などといった宮廷貴顕の図が挙げられる。これにより、周延は明治期で人気一番の美人画絵師となっている。ただし、この文明開化の新時代に浮世絵に描かれた女性たちは、その髪型や着るものは新しいデザインであっても、その容貌は未だ江戸美人のままであった。

美人画以外にも子供絵歴史画、国周の流れをくむ役者絵挿絵などの作品があり、周延の錦絵の作品数は錦絵820点、版本30種[13]と多数に上り、数少ない優れた明治浮世絵師の中においても屈指の存在であった。

周延が生涯を通して最も力を注いだのは宮廷官女、大奥風俗を含む美人風俗であり、時代を反映した優れた作品群があった。門人には楊斎延一吉川霊華鍋田玉英、鈴木延雪らがいた。

大正元年(1912年)9月29日、胃がんにより死去[5]。享年75。墓所は高田藩の中屋敷が目の前に位置した、下谷区無縁坂の浄土宗講安寺であったが、後に豊島区雑司が谷雑司が谷霊園に移された。戒名は覚了院直誉義誓居士。明治最後の浮世絵師と称された。

死の2ヶ月後、池袋本立寺に「神木隊戊辰戦争之碑」が建立された。その建設者名の冒頭に本名である橋本直義と刻まれており、周延が最後に成そうとしたのは先に亡くなった神木隊同士たちの慰霊だった事がわかる。
作品
錦絵

「東京
両国橋真景」 大判3枚続 明治8年(1875年

「東京名所之内 内国勧業博」 大判3枚続揃物の内 明治10年(1877年)

「千代田の大奥」 大判 東京国立博物館所蔵

「千代田の大奥」 静岡県立中央図書館所蔵

「東京不忍大競馬之図」 東京国立博物館所蔵

「天皇陛下御幸図」 東京国立博物館所蔵


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef