楊戯
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諸葛亮の幕僚で魏延と対立した「楊儀」とは別人です。

楊戯
蜀漢
射声校尉
出生生年不詳
益州?為郡武陽県
死去景耀4年(261年
?音Yang Xi
文然
主君劉禅
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楊 戯(よう ぎ)は、中国三国時代の政治家。は文然。蜀漢に仕えた。益州?為郡武陽県の人[1]。『季漢輔臣賛』の著者。『三国志』蜀書に独立した伝がある。
生涯

若くして張表らとともに名を知られ、諸葛亮からも高く評価されていた。20余歳で州の書佐から督軍従事となり、軍内の裁判を司った。その裁定は公正であると称賛され、丞相府に召されて主簿に任命された。諸葛亮の没後、尚書右選部郎に任命されるが、??に請われて治中従事史となった。??が大将軍となり将軍府を開くと、召されて東曹掾となった。

その後、南中郎参軍に昇進し、?降都督の張表の副将となり建寧太守を兼任した。しかし、病気により成都へ召還され、護軍監軍に任命された。後に再び地方に出て梓潼太守を拝命、また中央に戻り射声校尉となった。どの役職においても清廉・簡約で、煩瑣なことは言わなかったという。

延熙4年(241年)、『季漢輔臣賛』を著した。

延熙20年(257年)、姜維らとともに出陣し芒水まで至った。楊戯は姜維を嫌っていたため、酒の席で嘲るような発言を何度もした。姜維は平静を取り繕っていたが、内心穏やかではなかった。そのため軍の帰還後、姜維の意を受けた者に上訴され、免官された上で庶民に落とされてしまった。

景耀4年(261年)に死去した。
人物

陳寿は「怠惰で、仕事も適当に手を抜く性分ではあったが、一度も他人に取り入る言葉を口にしたり、過度の愛情をもって人に接したりしなかった」と評している。一方で、旧友への援助は惜しむことがなかった。また、当時は評価が低かった?周を楊戯は重んじ「我らの子孫は?周に及ばぬであろう」と誉め称えた。

??との議論の時に返事をしないことが度々あった。楊戯を快く思わない者が彼を失脚させようと「楊戯は公と話しても返事をしません。何という思い上がりでしょうか」と??に指摘した。??は「人の心が同じではないのは、各々の顔が違うのと同じだ。表面で従っておいて後からあれこれ言うのは、古人の戒めるところである。楊戯が私の言葉に賛同すれば、それは彼の本心ではなく、かといって私の言葉に反対すれば、それは私の非を明らかにする事になる。だから黙っていたのだ。これは楊戯の美点である」と言った[2]
脚注^ 同郷の後輩に李密がいる。
^ 「??伝」

参考文献

正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7










陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)

巻1 武帝紀

太祖武皇帝曹操

巻2 文帝紀

文皇帝曹丕

巻3 明帝紀

明皇帝曹叡

巻4 三少帝紀

斉王曹芳

高貴郷公曹髦

陳留王曹奐

巻5 后妃伝

武宣卞皇后

文昭甄皇后

文徳郭皇后

明悼毛皇后

明元郭皇后

巻6 董二袁劉伝

董卓

李?




袁紹

袁譚

袁尚


袁術

劉表

巻7 呂布臧洪伝

呂布

張?

陳登


臧洪

陳容


巻8 二公孫陶四張伝

公孫?

公孫度

公孫康

公孫恭

公孫淵


陶謙

張楊

張燕

張?

張魯

巻9 諸夏侯曹伝

夏侯惇

韓浩

史渙


夏侯淵

曹仁


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