椿海
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坂東地方の地図。椿湖は下総国(黄緑色)の右端近くに示されている。

椿海(つばきのうみ、つばきうみ)または椿湖[1]とは、九十九里平野の北部、現在の千葉県東庄町旭市匝瑳市の境界付近に、江戸時代初期まで存在したである[注釈 1][2]江戸時代に作成された『下総之国図』(船橋市西図書館所蔵)では、太田ノ胡水と表記されている。

伝えられるところでは、東西3里(12キロメートル)南北1里半(6キロメートル)、約51平方キロメートルと言われ、山手線エリアがすっぽり入る7,200ヘクタールの面積があったともされている[3][4]
概要

『香取志』に、「古老の伝えるところでは、大古ここに大きな椿の木があった。花が咲いた時は天がまっ赤になり、散った際には地に赤い錦を敷きつめたようになった。この椿の大木が寿命尽き枯れて倒れ残った根の跡が湖水となり椿海といわれた。上枝の方を上総といい、下枝の方を下総という。」とあるが、実際には当時の玉の浦入り江が、沿岸流によって運ばれたによって出口を塞がれてとなったものと推測される[3][注釈 2]

栗山川/椿海水系では、日本全体の40パーセントに及ぶ縄文時代丸木舟の出土例があり[7][注釈 3]古墳時代には椿海を望む台地上に御前鬼塚古墳などの古墳が造営されている[9]近世干拓され「干潟八万石」と呼ばれる美田となったが、万葉のころ九十九里平野北東端の汀線近くに海上潟(海上津)があり、そこがとしてしばしば利用されていたことは、万葉集に詠まれた「夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず(7-1176)」や「鹿島の崎に……夕潮の 満ちのとどみに 御船子を 率ひたてて 呼びたてて 御船出でなば 浜も狭に……海上の その津を指して 君が漕ぎ行かば(9-1780)」などからもうかがい知ることができる[10]。これらのことから古代においてこの付近は、危険な犬吠埼沖を避けて設定された黒部川流域を通り香取海に至るルートの要衝だったとみられている[11]
江戸時代の開発
開発の時代背景

天正18年(1590年)8月朔日徳川家康江戸城に入った。このときの江戸は、100年前の太田道灌の頃の江戸市街の面影はなく、茅葺の家が100軒ばかりであった。その後、慶長14年(1609年)に訪れたドン・ロドリゴの記すところによれば、早くも江戸の人口は15万となり、享保年間(1716年?1736年)には武家人口が50?60万、町人や出稼ぎ人も50万人を超えていたといわれる[12]。この発展を続ける江戸の町の消費需要を賄うため、東北諸藩からの物資輸送を担う利根川東遷事業が進められ、出羽国の幕領米の廻米のため東廻西廻海運が開かれた時代である[注釈 4]

徳川家康の関東移封に伴い、木曾義昌義利父子が近くの下総国阿知戸(現在の旭市網戸)に封じられ、義昌は死後椿海に水葬されたと伝えられている。その後義利の代に木曾氏改易され、その封地は幕府直轄地となった[14]
椿海の干拓

元和年間(1615年?1624年[1]、江戸の町人・杉山三郎衛門[注釈 5]江戸幕府干拓を申請したのが最初の干拓計画であると伝えられるが、これに対し幕府からの許可は下りなかった[15]。続いて、寛文年間(1661年?1673年)に、白井治郎右衛門が干拓計画を願い出、伊奈忠常による現地視察が実現したが、椿海を用水源とする各村の反対にあい、またも許可は下りなかった[1][15]。独力での出願では望みが薄いことを知った白井は、松平定重の元家来で幕府大工頭の辻内刑部左衛門に協力を求めた。辻内は大老酒井忠清の内諾を得て、願書を提出した。これを受け、寛文9年(1669年)に幕閣による見分が再度行われた。椿海東端に位置する後草村(現・旭市)から三川村(現・旭市)の浜を開削して排水路を設ける計画が立案され、普請奉行も派遣されたが海水が湖へ逆流するなど予想以上の難工事となり、資金繰りに行き詰まった白井が開発請負人からおりてしまったため、開発は中止された[1][15][16][17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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