椿三四郎
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つばき さんしろう
椿 三四郎
1930年代の現代劇スチル写真
本名間瀬 松太郎 (ませ まつたろう)
別名義津島 慶一郎 (つしま けいいちろう)
生年月日 (1907-01-03) 1907年1月3日
没年月日不詳年
出生地 日本東京府東京市日本橋区江戸橋(現在の東京都中央区日本橋
職業俳優
ジャンル劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間1928年 - 1956年
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椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6]。本名間瀬 松太郎(ませ まつたろう)、別芸名津島 慶一郎(つしま けいいちろう)[1][3][4][7]
人物・来歴

1907年明治40年)1月3日東京府東京市日本橋区のうち、のちの江戸橋地域(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる[1][4]

1924年(大正13年)3月、東京・神田錦町の旧制・錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、西巣鴨町国際活映(国活)に入社する[1]。しかしながら当時の国活は経営が悪く、減産体制となっており、翌1925年(大正14年)には同社は倒産、椿は同年12月、兵庫県西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所に移籍する[1]。同撮影所では助演であったが、同撮影所が閉鎖され、1928年(昭和3年)、京都・等持院の京都撮影所(かつてのマキノ・プロダクション等持院撮影所)に異動になってからようやく認められ、『かげらふの唄』、『街の狼』等に主演して主演俳優としての地位を獲得、同社が崩壊する1931年(昭和6年)10月まで、主演映画への出演は続いた[1][2]高村正次が等持院撮影所に設立した大衆文芸映画社に移籍し、1932年(昭和7年)には2本の映画に出演していることがわかっている[1][2]。同社も間もなく解散し、同年11月、高村が東亜キネマを買収して御室撮影所に設立した宝塚キネマ興行に移籍した[1][2]。同社でも主演作が続いたが、同社もまた、1934年(昭和9年)2月、解散した[1][2][8]。御室撮影所は、同年9月に田中伊助がエトナ映画社の製作拠点として使用することになり、ここでも数本に出演したが、翌1935年(昭和10年)4月には、同社もまた解散した[1][2][8]

マキノ正博が同年末に新しく開いたトーキーのための撮影所、マキノトーキー製作所に入社、1936年(昭和11年)1月19日に公開された、久保為義監督の『浪人天国』が記録の上では最初の出演作である[1][2]。同社では完全に脇役に回る[1][2]。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔大内弘ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)に移籍、マキノ正博、澤村國太郎光岡龍三郎、あるいは第二期入社の水原洋一田村邦男團徳麿志村喬大倉千代子大内照子大久保清子らは日活京都撮影所に移籍していくことになり、椿も日活京都に合流した[2][9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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