検非違使(けびいし、けんびいし)は、日本の律令制下の令外官の役職である。「非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」の意。検非違使庁の官人。佐と尉の唐名は廷尉。京都の治安維持と民政を所管した。また、平安時代後期には令制国にも置かれるようになった。 平安時代の弘仁7年(816年)が初見で、その頃に設置されたと考えられている。当時の朝廷は、桓武天皇による軍団の廃止以来、軍事力を事実上放棄していたが、その結果として、治安が悪化したために、軍事・警察の組織として検非違使を創設することになった。当初は衛門府の役人が宣旨によって兼務していた。官位相当はない。五位から昇殿が許され殿上人となるため、武士の出世の目安となっていた。 寛平7年(895年)、左右衛門府内に左右の検非違使庁(役所)を置くようになったが、天暦元年(947年)に効率化、迅速化のために統合されて左庁だけに検非違使庁が置かれるようになった。 司法を担当していた刑部省、警察、監察を担当していた弾正台、都に関わる行政、治安、司法を統括していた京職など他の官庁の職掌をだんだんと奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。 平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。また、この頃から検非違使庁における事務は別当の自宅で行われるようになった。 平安時代末期になると院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると次第に弱体化し、室町時代には幕府が京都に置かれ、侍所に権限を掌握されることになった。もっとも、検非違使には、犯人の追捕を行う機能と、洛中の行政や刑事裁判を行う機能があり、前者は貞和年間から侍所に代替されるようになり、永徳3年(1383年)を最後に確認できなくなるが、後者はむしろ光厳院政期においては活発であり、後円融院政期の至徳3年(1386年)ごろまで活動が確認できる。このことから森茂暁は、検非違使庁の衰滅時期を至徳末年としている[1]。
概要
内部官職
別当
四等官の長官(カミ)に相当する。唐名大理卿。定員は1名で、現任の正あるいは権中納言または参議にして、左あるいは右衛門督、または左あるいは右兵衛督の兼任者のいずれかより補任される慣例である。参議四位で検非違使別当を兼帯した例もある。一方、大納言以上の議政官で兼帯したのは、藤原忠平が911年(延喜11年)に大納言に転任するが、検非違使別当をそのまま兼帯した例のみで他の例はなく、五位以下から兼帯した例もない。なお、検非違使別当は検非違使を統轄する最高責任者ではあるが、自身は検非違使ではない。また、検非違使別当を兼帯した権中納言従三位兼行左衛門督柳原量光
佐
四等官の次官(スケ)に相当する。唐名廷尉。定員は2名で、左あるいは右衛門権佐が兼務していた。なお、原則として検非違使を務めるのは権官である左あるいは右衛門権佐であり、正官である左あるいは右衛門佐が検非違使を務めることはない。別当は兼務が多かったので実質的に検非違使庁の責任者であった。蔵人で検非違使佐を兼ねたり、蔵人・弁官・検非違使佐を兼ねる三事兼帯もいた。ちなみに、史料における検非違使佐兼帯の初出は、824年(天長元年)、左衛門権佐従五位上の笠仲守と従五位下守右衛門権佐の藤原永雄である。(帝王編年記)
大尉
四等官の判官(ジョウ)に相当し、定員は4名で、衛門大尉が兼務していた。明法家である坂上氏及び中原氏が世襲するようになった。
少尉