植草 甚一
(うえくさ じんいち)
『スイングジャーナル』1962年11月号より
誕生1908年(明治41年)8月8日
東京市日本橋区
死没 (1979-12-02) 1979年12月2日(71歳没)
東京都世田谷区
墓地墨田区の回向院
職業評論家
国籍 日本
主題欧米文学
ジャズ
映画
代表作『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』
主な受賞歴第32回日本推理作家協会賞(評論部門)
親族植草圭之助(従弟)
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植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月2日)は、欧米文学、ジャズ、映画の評論家。通称“J・J氏”。 植草は東京市日本橋区小網町(現在の東京都中央区日本橋小網町)にて、木綿問屋の一人息子として生まれた。1915年、東華小学校入学。10歳の頃から姉に連れられて地元の映画館「水天館」に通う。1921年、渋谷鉢山町の東京府立第一商業学校に入学、ここでは首席を通した。1923年、関東大震災で被災。これをきっかけに植草家は没落する。 1926年、旧制第一高等学校を受験するが失敗。このため、東京府立第五中学校の補習科に通学。併せて神田錦町の日土講習会に通う。当時は『無産者新聞』を愛読し、左翼思想に惹かれていた。1927年、第一高等学校を再度受験して失敗し、第一早稲田高等学院理科に補欠で入学した。1930年、早稲田大学理工学部建築学科に進学。在学中は新劇に熱中し、劇団のポスターやイラストに才能を発揮する。1932年から池袋のジャージー工場「藤幸」に勤務し、『ヴォーグ』『ハーパース・バザー』などを翻訳、さらにセーターや水着のデザインも手がけた。大学では落第を2度繰り返した後、1933年、学費未納により除籍処分を受けた。 今川小路「銀映座」の主任助手を経て、1935年、東宝に入社。植草はこのころ、初めての映画評論「目を閉じて視覚化せよ」を『キネマ旬報』に発表(アルフレッド・ヒッチコックの映画『三十九夜』を扱った内容)。1937年から吉岡重三郎のゴーストライターを務め、1938年には吉岡名義でダイヤモンド産業全書13『映画』を上梓。1941年、ユニバーサル映画の字幕スーパーを初めて手がける。同年9月、コンラッド・リクター
経歴
東宝では宣伝部や調査部などに勤務していたが、1948年に労働争議で退職、『キネマ旬報』同人となり、『アメリカ映画』の編集委員を務める。1949年から本格的に映画評論を書き始め、『キネマ旬報』『映画之友』『スクリーン』などで活躍。ニックネームの「J・J」とは、このころ『映画芸術』に発表していた三人称スタイルの評論の中に自らの分身を「シネマディクトJ」(シネマディクトとは映画中毒者の意。Jは甚一の頭文字)の名で登場させた後、この評論を単行本に収録する際、語呂がいいとしてJ・Jと改めたことに由来する。アルフレッド・ヒッチコック、淀川長治、双葉十三郎、江戸川乱歩らと(1955年)