植民市
[Wikipedia|▼Menu]
紀元前6世紀ごろの地中海。黄色はフェニキア人の植民都市、赤はギリシア人の植民都市、灰色はその他の植民都市である。

古代の植民都市とは、母体となる都市が領土を周辺に拡大するという形態ではなく、全く異なる場所に新たな都市国家を作ったものである。植民地母都市のつながりは密接に保たれることが多く、様々な形態をとった[1]。しかし近世?近代の帝国主義植民地主義時代に主として西ヨーロッパ諸国の主権国家群が建設した植民地が先住民社会を領域的に包摂して母国の従属下に置いたのとは異なり、古代の都市国家が建設した植民都市は、先住民社会の海の中にあたかも島の様に自立して営まれ、母市からは政治的に独立した都市国家として運営された。
古代エジプトの植民地

古代エジプトでは、エジプト第1王朝より少し前からカナン南部に植民している[2]ナルメル王はカナンラファフなどに陶芸工房を作らせ[3]、製品をエジプト本国に輸出させていた[3]造船技術は古代エジプトでは紀元前30世紀かそれ以前から知られていた。アメリカ考古学会によれば[4]、紀元前3000年ごろのものとされる全長約23メートルの船[5]ホル・アハ王が作らせたものと見られている[5]
フェニキアの植民地

紀元前1千年紀前半、地中海ではフェニキア諸都市が交易大国として栄えていた。エジプトギリシャとも交易し、西は現在のスペインのガディル(現在のカディス)にまで交易航行拠点としての植民都市を築いた。ガディルからさらに大西洋航路を開拓し、の鉱石である錫石を豊富に産したグレートブリテン島とも交易路を築いた。特に有名で栄えたフェニキアの植民都市としては、ティルスを母都市として北アフリカに建設された Kart-Hadasht(Qart-?ada?t、「新都市」の意)があり、後にカルタゴの名で知られるようになった。

後に、カルタゴが植民活動の主体となりカルタゴ・ノウァ(現カルタヘナ)等の植民都市を建設する。
古代ギリシアの植民地

古代ギリシアでは、外敵から逃れるためにもともとの居住地を去った敗者が植民都市を築くことがあった。時には市民同士が争うような内乱の結果、敗者が新たな都市を別の場所に建設することもあった。また、人口が過密になった際に内乱を未然に防ぐために新たな都市を建設することもあった。しかし大多数の植民都市建設の動機は、遠隔地との交易関係を確立し、母都市(ギリシア語ではメトロポリス)の繁栄に寄与することだった。トラキアには紀元前8世紀から植民都市が建設された[6]

古代ギリシアの30以上の都市国家地中海世界全体に複数の植民都市を持っていた。植民都市の中でもミレトスは特に栄えた。紀元前9世紀後半から紀元前5世紀にかけて約90の植民都市が地中海沿岸各地にあり、東は黒海沿岸やアナトリア半島(現在のトルコ)から、西はイベリア半島南岸まで、アフリカ北岸にもいくつかの植民都市があった。

植民都市はアポイキア(?ποικ?α)とエンポリア(?μπορ?α)に分類される。前者は独立した都市国家で、後者は交易拠点である。

ギリシアの都市国家が植民都市建設を始めたのは紀元前800年ごろのことで、シリア沿岸のアル・ミナやナポリ湾に浮かぶイスキア島のピテクサイ(エンポリア)が最初である。どちらもエウボイア島の都市国家を母都市とする[7]

暗黒時代からアーカイック期にかけて2度、ギリシアから海外に大量の入植者が流出した時期があった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef