植民地主義
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1800年の世界の植民地の地図(各本国を含む)第一次世界大戦勃発時の世界の植民地の地図(各本国を含む)第二次世界大戦終結時の1945年の世界の植民地の地図(各本国を含む)

植民地主義(しょくみんちしゅぎ、英語: Colonialism)とは、国境外の領域を植民地として獲得し支配する政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す。大航海時代から20世紀後半にかけては強国が盛んに植民地を獲得し、たがいに覇を競っていた。
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新大陸への植民1494年のトルデシリャス条約で定められた子午線(紫)と1529年のサラゴサ条約で定められた、モルッカ諸島子午線(緑)アメリカ大陸のスペイン領(1800年)

いわゆる植民地主義的な国境外の遠隔地への植民地の拡大は、大航海時代スペインポルトガル両国の植民・征服活動をもって嚆矢とし、のちにヨーロッパ諸国や列強各国によって世界中で行われた。1492年クリストファー・コロンブスが新大陸に到達すると、スペインは即座に到達した地域の植民地化を進めていった。これに対し、1498年ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰回りでインドへと到達したポルトガルも、航路周辺の都市を次々と攻略して植民地化していった。すでに1494年にはトルデシリャス条約が結ばれており、現代で言う西経46度37分の線を境界として西がスペイン、東がポルトガルの領域とされたため、両国はこれに従い東西を次々と植民地化していった。ただしこの線は新大陸とアフリカとの領域の確定という意味で設定されたものであったが、新大陸で最も東に張り出しているブラジル東部はこの線の東側に位置することになったため、ポルトガルはこの地域に植民を行い、南アメリカ大陸で唯一ブラジルだけはポルトガルの植民地となった。また、フェルディナンド・マゼランによって1522年世界周航がなされ世界が丸いことが証明されると、香辛料を産出するモルッカ諸島の帰属を巡って東側にも分割線を引き直す必要が生じ、1529年にはサラゴサ条約が結ばれて東側の境界も確定した。ただしこの境界はさほど厳密に守られたわけではなく、たとえば16世紀後半にはスペインはサラゴサ条約の境界の西側にあるフィリピンの植民地化を行っている。

スペインとポルトガルの植民地政策は大きく異なっていた。植民地域にそれほど強力な敵国の存在しなかったスペインは、アステカ帝国インカ帝国といった先住民の大帝国を滅ぼし、先住民からの過酷な収奪を行った。新大陸のインディオたちは天然痘をはじめとする旧大陸の病原体への抵抗力を持っておらず、圧政も相まって先住民人口はわずかな間に激減した[1][2]。この減少した人口を補うために黒人奴隷が多く移入され、また支配層として本国からの植民も行われることで、植民地は徐々にスペイン化していった。ただしもともと先住民が大帝国を築き上げていた地域であったため人口が多く、激減したのちも多くの先住民が生活を続けており、先住民と白人などの混血もやがて割合を増していった。これに対し、本国の人口が少なく植民地域にも火砲と騎兵に富んだ強力な軍備で武装し、政治的にも成熟したアジア・アフリカの内陸王朝国家という対抗勢力の多く存在したポルトガルは、あたかも古代の植民都市のごとく沿岸の都市を占領し、城塞を築いて点と線を確保する戦略をとった。こうしたことからポルトガル植民地は面としての広がりを持たず、内陸勢力やオマーンなどの対抗勢力が登場すると拠点を次々と占領され、アンゴラモザンビークマカオゴアを除くほとんどの植民地を喪失することとなった。ただしブラジルは例外で、ここではスペインと同じく徐々に入植型の戦略をとるようになっていった[3]

トルデシリャス条約で新世界から締め出されていたほかのヨーロッパ諸国も、17世紀に入ると続々と新大陸への植民を行うようになっていった。この際対象となったのが、スペインによる植民が行われていなかった北アメリカ大陸東部と、スペインの植民地統治が大陸に重点を移すにしたがって半ば放棄されるようになったカリブ海の諸島群である。北アメリカ大陸においてはフランスセントローレンス川河口のケベック・シティーを中心としてヌーベルフランス植民地を建設し、イギリスは1607年ジェームズタウンを建設し、1620年メイフラワー号によってピルグリム・ファーザーズプリマス植民地を建設するなど、18世紀中ごろまでに北アメリカ大陸東部中央海岸に13植民地を建設していった。カリブ海においてはジャマイカがイギリス領、エスパニョーラ島西部がサン・ドマングとしてフランス領となったが、最も争奪戦が激しかったのは小アンティル諸島だった。この地は小島が多く存在してスペインの統治が行き届かなかったうえ、どの島もそれなりの広さを持ち、そして土地が肥沃で砂糖をよく産出したためである。こうした植民地はどちらかといえば入植植民地の色彩が強く、とくにイギリスのアメリカ東部13植民地は完全な入植型植民地だった。

こうして各国が新大陸を中心に植民地を広げていく中で、特に積極的に植民地を拡大していたイギリスとフランスの間で17世紀末以降「第2次百年戦争」とも呼ばれる一連の戦争が勃発した。この戦争の最終的な勝者はイギリスであり、フランスはとくに1756年から1763年にかけて起こった七年戦争において敗北を喫し、1763年のパリ条約において北アメリカ大陸の植民地をすべて失い、サン=ドマングなどいくつかのカリブ海の植民地とインドなどのいくつかの植民地を残すのみとなって第一次フランス植民地帝国はほぼ崩壊した。逆にこの戦争で広大な植民地を新たに得たイギリスは、植民地帝国としてさらに力を増していった。
新大陸の独立

こうした新大陸中心の植民地の展開は、18世紀末以降大きく転換する。きっかけは1775年に始まったアメリカ独立戦争である。この戦争で1783年アメリカは完全に独立を果たし、イギリスはアメリカ大陸東岸のよく開発された広大な植民地を失った。その後、フランス革命に影響を受けたフランス領サン=ドマングにおいても1791年ハイチ革命が勃発し、数十年間の紆余曲折ののちに最終的に独立を果たすこととなる。さらにナポレオン戦争後、スペイン植民地において相次いで独立戦争が勃発し、南米大陸北部のシモン・ボリバルやアルゼンチンのホセ・デ・サン=マルティンらに率いられた独立派は各地で勝利して、大コロンビアなどの新独立国が次々と誕生した。メキシコにおいては自由派と保守派が手を結び、アグスティン・デ・イトゥルビデによって1821年メキシコ帝国が建国された。


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