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植村 隆(うえむら たかし、1958年〈昭和33年〉4月28日[1] - )は、ジャーナリスト。
株式会社金曜日(週刊金曜日発行元)代表取締役社長[2]、韓国のカトリック大学校招聘教授[3]。朝日新聞社記者、北星学園大学の非常勤講師を歴任。
朝日新聞記者時代に書いた韓国人元慰安婦金学順の証言に関する2件の記事(1991年〈平成3年〉8月11日と12月25日)が問題となった[4][5][6][7]。朝日新聞は第三者委員会から指摘を受け「慰安婦」と「挺身隊」を混同していたとして後日訂正した[8]。
西岡力が週刊文春にてこの植村の記事は「捏造記事と言っても過言ではない」と主張し、植村は名誉毀損であるとして提訴したが、東京地裁と東京高裁は植村が「意図的に事実と異なる記事を書いた」と認定。最高裁が植村の上告を棄却し、植村の敗訴が確定した[9]。 1958年(昭和33年)4月28日に高知県須崎市で生まれる[1]。土佐高校、早稲田大学政経学部政治学科を卒業し、1982年(昭和57年)に朝日新聞社入社。仙台支局、千葉支局に勤務し、1987年(昭和62年)8月に韓国の延世大学に留学。1988年(昭和63年)8月に東京本社外報部に戻り、1989年(平成元年)11月から2年5か月間大阪本社社会部に勤務して民族問題や被差別部落の問題を担当。この期間に問題となった記事を書いた。その後、東京本社外報部に戻り、1993年(平成5年)8月にテヘランの特派員となり、ソウル、北京特派員を歴任。ソウル特派員時代に従軍慰安婦に関する記事を19本書いた。最後は北海道支社函館支局長を務め、2014年(平成26年)3月に朝日新聞社を早期退職した。延辺科学技術大研究員や早稲田大学現代韓国研究所客員研究員も務めた。仙台支局時代に結婚したが離婚。現在の妻は、太平洋戦争犠牲者遺族会で働いていた女性(母親は同会幹部の梁順任(ヤン・スニム、???))で、従軍慰安婦問題を取材するため訪韓した植村が、証言者となる慰安婦探しに難航している時に知り合い[10] 1991年(平成3年)に結婚した[11][12][13]。 1991年(平成3年)8月11日、朝日新聞にて大阪社会部時代の植村は「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」とのタイトルで、金学順が韓国挺身隊問題対策協議会に元慰安婦として初めて証言した録音テープを聞きその記事を書いた。金学順が日本政府を提訴後の12月25日には、本人を直接取材した記事を出した。 2008年(平成20年)11月、朝日新聞で2007年(平成19年)4月から翌年3月まで連載された「新聞と戦争」取材班の一員として、第8回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞している[14][15]。 2014年(平成26年)3月、朝日新聞を早期退職。同年4月より神戸松蔭女子学院大学教授に就任予定[16] であったが、当大学は就任前に雇用契約を解消した[17]。
経歴