植木等
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うえき ひとし
植木 等
1963年。『HEIBON MELODY』内キングレコード広告
本名植木 等
別名義ハリー植木[1]
生年月日 (1927-02-25) 1927年2月25日
没年月日 (2007-03-27) 2007年3月27日(80歳没)
出生地 日本愛知県名古屋市
死没地 日本東京都
身長165 cm
血液型AB型
職業コメディアン
歌手
俳優
タレント
ジャンル映画
バラエティ番組
テレビドラマ
舞台
活動期間1946年 - 2007年
配偶者あり
著名な家族比呂公一(長男)
植木裕子(三女)
主な作品
テレビドラマ
植木等のそれ行けドンドン
名古屋嫁入り物語
大空港'92
新空港物語
俺たちの世直し強盗』映画
『無責任男』シリーズ
喜劇 泥棒大家族 天下を盗る
喜劇 ここから始まる物語
『愛しのチィパッパ』

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀助演男優賞
1986年新・喜びも悲しみも幾歳月
ブルーリボン賞
大衆賞
1965年
特別賞
2007年
その他の賞
キネマ旬報 助演男優賞
毎日コンクール 助演男優賞
第8回日刊スポーツ映画大賞 助演男優賞
あした

備考
紫綬褒章1993年
勲四等旭日小綬章1999年
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植木 等(うえき ひとし、本名同じ、1927年昭和2年〉2月25日[注釈 1] - 2007年平成19年〉3月27日)は、日本俳優コメディアン歌手ギタリストタレント。「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバー。仲間内での愛称は「ボンさん」「植木屋」「植木やん」。

長男作曲家比呂公一。妹の夫に部落問題研究者の川村善二郎御木本幸吉は、父方の祖母の親類にあたる[2]
来歴

1927年(昭和2年)2月25日 - 父・植木徹誠、母・いさほの三男として愛知県名古屋市に生まれる[3]。父・植木徹誠は、真宗大谷派名古屋別院にて僧侶としての教修中だった。

実際の生年月日は1926年12月25日大正天皇崩御した日である[4][注釈 2]。理由として植木本人が『徹子の部屋』で語ったところによると、父が出生時にたまたま体調を崩しており、叔父・保之助に役所への届けを依頼したが叔父がそれを忘れ、翌年ようやく出生届を出したことから、戸籍上の生まれ年が、昭和元年(1926年12月25日 - 12月31日)を飛び越え、昭和2年(1927年)になってしまったという。「3年ぶりに届けが出されたみたいなもの」と笑い飛ばし、後年のタレント活動においては、大正生まれよりというよりも昭和2年のほうが若いイメージになることを幸いとも感じていた。

3歳の頃、父親が浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となり移住。移住先は、母親のいさほ(旧姓:小幡・1903年?1953年)の実家である真宗大谷派西光寺がある三重県度会郡小俣町(現在の伊勢市の一部)の近く。なお、公式ホームページでは出身地を移住先である三重県としている。また一部の文献では出身地を当時の町名である小俣町や現在の市名である伊勢市としているものもある。

1939年 - 僧侶としての教修をするべく、東京・駒込の真浄寺へ小僧になるため上京。

1944年 - 旧制京北中学校卒業後、東洋大学専門部国漢科に入学。在学中からバンドボーイアルバイトを始める。

1946年 - テイチクレコードの新人歌手コンテストに合格。

1947年 - 3月に東洋大学専門部国漢科卒業後、東洋大学文学部(旧制)入学。同年秋にはNHKラジオ『お昼の軽音楽』で『ビロードの月』を歌うが、正規に音楽を勉強していないことに加え、進駐軍の影響から巷ではジャズをはじめとするダンス・ミュージックが流行し始めたことから「歌だけでなく、何か楽器を弾けたほうが収入になる」とのアドバイスを受け、「刀根勝美楽団(刀根勝美とブルームードセクション)」のバンドボーイの傍ら、友人から8000円のギターを月賦で譲り受け、教則本を頼りに練習を開始。この時代に知り合ったのが植木よりも3歳年下の若いドラマー、野々山定夫(のちのハナ肇)だった。ハナとはこの時代からの旧友である。

1950年 - 東洋大学文学部国漢科(旧制)卒業。ほどなくして結婚。「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入。「楽譜が読める」強みがあり、採用となったという。デューク・オクテットのドラマーは野々山で、再び顔を合わせることとなった。

1952年 - 自身のトリオ「植木等とニュー・サウンズ」を山崎唯(p)、大石康司(b)と結成。植木のバンドが演奏していると、進駐軍として日本に滞在していたハンプトン・ホーズがピアニストとして飛び入りで演奏に参加してきたという逸話が残っている。

1954年 - オペラ歌手平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けていた折、ギタリストを探していたフランキー堺に誘われ、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。ここでギタリストとしてではなく、「でたらめスキャット」など、コメディー・リリーフとしての才能を開花させる。当初、「日劇での1ステージだけ」という約束がそのまま残留を請われ、この時点で「ニュー・サウンズ」は解散となる。

1957年3月1日 - 1955年フランキーが俳優に転身し日活に引き抜かれたことで、既に1956年2月、シティ・スリッカーズから移籍していた谷啓らのいるキューバン・キャッツに移籍。その主要メンバーの一人として活躍し、ジャズ喫茶などで人気を博す(のちにバンド名を「ハナ肇とクレージーキャッツ」に改称)。既に知己だったリーダーの野々山定夫(ハナ)は当初からシティ・スリッカーズのような「コメディー路線」を志向していた。

1959年 - クレージーキャッツの一員として、フジテレビのTV番組『おとなの漫画』に出演。

1961年 - クレージーキャッツの一員として、日本テレビの番組『シャボン玉ホリデー』に出演し、コントでの演技や、歌、「お呼びでない?…こりゃまた失礼いたしました!!!」などのギャグで、爆発的な人気を得る。

1962年 - 古沢憲吾監督の東宝映画『ニッポン無責任時代』に出演し、大ヒット。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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