.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}森(もり) ?外(おうがい)
54歳の森?外(1916年)
誕生森 林太郎(もり りんたろう)
(1862-02-17) 1862年2月17日
石見国津和野町田村(現在の島根県鹿足郡津和野町町田)
死没 (1922-07-09) 1922年7月9日(60歳没)
東京府(現・東京都)
墓地禅林寺
職業小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚、教育者
言語日本語
国籍 日本
教育医学博士、文学博士
最終学歴東京大学医学部
活動期間1889年 - 1922年
ジャンル小説、翻訳、史伝
主題近代知識人の苦悩
文学活動反自然主義、高踏派
代表作『舞姫』(1890年)
『うたかたの記』(1890年)
『ヰタ・セクスアリス』(1909年)
『青年』(1910年)
『雁』(1911年)
『阿部一族』(1913年)
『山椒大夫』(1915年)
『最後の一句』(1915年)
『高瀬舟』(1916年)
『渋江抽斎』(1916年)
主な受賞歴勲一等旭日大綬章(1915年)
贈従二位(1922年、没時叙位)
デビュー作『於母影』(1889年)
配偶者登志子(1889年 - 1890年)
志げ(1902年 - 1922年)
子供於菟(長男)
茉莉(長女)
杏奴(次女)
不律(二男)
類(三男)
影響を受けたもの
アンデルセン、ゲーテ、シェイクスピア、シラー、ハウプトマン、ショーペンハウアー、フォン・ハルトマン、夏目漱石、依田學海など
影響を与えたもの
多くの日本の作家
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森 ?外(もり おうがい、文久2年1月19日[1]〈1862年2月17日[2][注釈 1]〉- 大正11年〈1922年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)出身。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。東京大学医学部[注釈 2]卒業。大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。
帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。
陸軍を退いた後は宮内省に転じ、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や図書頭を死去まで務めたほか、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。 1862年2月17日(文久2年1月19日)、?外こと森林太郎は石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県鹿足郡津和野町町田)で生まれた[3]。代々津和野藩の典医を務める森家(禄高は50石[1])では、祖父と父を婿養子[注釈 3]として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった[注釈 4]。 藩医家の嫡男として、幼い頃から『論語』『孟子』といった漢学書とオランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており[4]、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。森静男が経営した橘井堂跡の碑
生涯
生い立ち