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出典検索?: "森長直"
凡例森長直
時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛文12年11月22日(1673年1月9日)
死没享保7年8月24日(1722年10月4日)
改名亀之助・帯刀(幼名)、長直
戒名鉄性院殿一峯浄空大居士
墓所兵庫県赤穂市加里屋の花岳寺
官位従五位下和泉守
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉、家宣、家継、吉宗
藩備中西江原藩主、播磨赤穂藩主
氏族森氏
父母森長継、橋村氏
兄弟忠継、長武、長俊、関長治、長基、長直、衆利、万姫、鳥居忠則正室、一条冬経室、兼、関長政養女、瑞光院、大姫、
松平康雄正室
妻堀親貞娘、鯰江氏
子森長孝正室、関長広婚約者、長孝
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森 長直(もり ながなお)は、備中国西江原藩第2代藩主、播磨国赤穂藩主。 寛文12年(1672年)11月22日、美作津山藩第2代藩主(後に西江原藩初代藩主)森長継の八男として生まれる。父は延宝2年(1674年)に隠居し、兄の長武が跡を継いだ。長武も貞享3年(1686年)に隠居し、長武と長直の甥である長成が跡を継いだ。長直は元禄7年(1694年)に長成から1500俵を分与されている。長成は生来虚弱であったが、中野村(現東京都中野区)の犬屋敷お手伝い普請に伴う、多大な借財が原因の藩内の混乱に心労を深め元禄10年(1697年)に死去した。しかし、嗣子がなかった。 隠居の長継は長直の弟である関衆利(森衆利)を長成の継嗣として認めてもらうよう幕府に訴え、幕府もこれを承諾した。しかし、衆利が継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で乱心したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)8月2日に領地を召し上げ、津山藩森家は改易された。 ただし、幕府は長継に与えていた隠居料である美作国内の2万石を改めて安堵することで、森家の存続を許した。こうして長継は新たに西江原藩を立藩し、長直は8月26日に世子として指名された。そして元禄11年(1698年)に父が死去すると、家督を継いで西江原藩主となった。西江原では新田開発を積極的に行った。 宝永3年(1706年)1月28日、播磨赤穂藩に同じく2万石で移封される。藩財政が早くから悪化したため、長直は今度は塩田開発に積極的に取り組んだ。享保7年(1722年)8月24日に死去した。享年51。跡を婿養子の長孝が継いだ。 先代
略歴
系譜
父:森長継(1610-1698)
母:橋村氏
正室:堀親貞の娘
継室:鯰江氏
生母不明の子女
女子:森長孝正室
女子:関長広婚約者
養子
男子:森長孝(1694-1723) - 森三隆の三男
森長継美濃森氏(宗家)当主
森長直次代
森長孝
表
話
編
歴
森氏西江原藩2代藩主(1698年 - 1706年)
森長継1697-1698
森長直1698-1706
播磨赤穂藩に転封、廃藩
表
話
編
歴
森氏赤穂藩初代藩主 (1706年 - 1722年)
池田家
池田政綱1615-1631
池田輝興1631-1645
改易
浅野家
浅野長直1645-1671
浅野長友1671-1675
浅野長矩1675-1701
改易→赤穂事件
永井家
永井直敬1701-1706
信濃飯山藩へ転封
森家
森長直1706-1722
森長孝1722-1723
森長生1723-1731
森政房1731-1746
森忠洪1747-1769
森忠興1769-1780
森忠賛1780-1801
森忠哲1801-1807
森忠敬1807-1824
森忠貫1824-1827
森忠徳1827-1862
森忠典1862-1868
森忠儀1868-1871
廃藩置県