森長可
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 凡例森 長可
可成寺所蔵
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕永禄元年(1558年
死没天正12年4月9日1584年5月18日
別名勝蔵・勝三(通称)、長一
鬼武蔵・夜叉武蔵(渾名)
戒名鉄開秀公大禅定門
霊光院殿慧徳長榮日勝大居士
墓所岐阜県可児市可成寺
岡山県津山市本源寺
主君織田信長羽柴秀吉
氏族森氏
父母父:森可成
母:えい(妙向尼、林通安の娘)
兄弟可隆、長可、成利(蘭丸)、長隆長氏忠政、うめ(木下勝俊正室)、 碧松院(関共成正室)
妻正室:池田せん
側室:加木屋正次の娘
子玄蕃(嫡男)、おこう(娘)
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森 長可(もり ながよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名本姓源氏家系清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・源義家の六男・義隆を祖とする森氏(仮冒の説あり)。父は森可成。兄に森可隆、弟に森成利ら。受領名武蔵守
生涯
家督相続

永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し勝蔵 長可を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉丹羽長秀塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にしてすでに他の重臣らと同じように活動している様子がうかがえる。

元亀4年(1573年)3月、第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された[1]。同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るものの、城内はすでにほとんどもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた[1]。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。

また、天正5年(1577年)頃から内政にも参加するようになり、地元の兼山城(現・岐阜県可児市兼山)周辺の発展のために間近を流れる木曾川を活かしての商業を重視し河港(兼山湊)の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んで専売制を敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちが尾張藩の美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、明治時代に到るまでこの制度は存続した[2][注釈 1]
甲州征伐

天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。忠正と長可は2月6日木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城小笠原信嶺を降伏させ、飯田城保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる[3]仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へ鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、このことは信長に書簡で注意を受けている。

そのまま忠正と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島四郡高井水内更級埴科)と海津城20万石を与えられた[3]。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。
信濃入領

天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取りかかった長可であったが、信濃国の政情はいまだ不安定であり、さらに上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにして[3][注釈 2]わずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。

残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが、領内の統治が容易ではないことを痛感した長可は、国衆の妻子を海津城に住まわせることを義務付け、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住まわせた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし、統治の確立に努めた[4]
越後侵攻

信濃国の仕置きを済ませた長可は、上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城の救援に向かったという知らせを受けて、同年の5月23日に5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某[注釈 3]らの守る田切城(妙高市大字田切字東裏にあった城)を落として[注釈 4]、上杉領深くまで侵攻した。6月までに春日山城からほど近い二本木(上越市)を守る上条景春を破り[5]、同地に陣を張った。当時、春日山城の兵はほとんど魚津城の救援に向かっていた。手薄な春日山城に長可が肉薄すると、上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城の救援を諦めざるを得なかった。景勝は5月27日天神山城の陣を引き払い春日山城へと兵を返すこととなった。これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し、上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。

しかし6月2日に本能寺の変で信長が討たれると、敵地深くに進攻していた長可は一転して窮地に立たされた。6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは出浦盛清を除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅するための一揆を煽動していた。これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。長可の家臣・大塚次右衛門が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。


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