この項目では、歌手について記述しています。西洋古代哲学者の同名の人物については「森進一 (哲学者)」をご覧ください。
社会学者の「森真一」とは別人です。
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基本情報
出生名森内 一寛
生誕 日本・山梨県甲府市
(1947-11-18) 1947年11月18日(76歳)
出身地 日本・鹿児島県鹿児島市
学歴鹿児島市立長田中学校卒業
ジャンル演歌・歌謡曲・J-POPなど
職業
歌手シンガーソングライター
担当楽器歌
活動期間1966年 -
レーベルビクターエンタテインメント
事務所森音楽事務所
公式サイト森進一公式ホームページ
森 進一(もり しんいち、1947年〈昭和22年〉11月18日 - )は、日本の歌手、シンガーソングライター、社会福祉活動家。本名?森内 一寛(もりうち かずひろ)。
山梨県甲府市生まれ鹿児島県育ち[1][2]。身長167cm、体重49kg、血液型はO型。息子にONE OK ROCKのTakaとMY FIRST STORYのHiroを持つ。 演歌歌手という括りで扱われることが多いものの、本人は演歌歌手と呼ばれるのは不愉快とし、流行歌手であるとしている[3]。そのため、演歌の枠に捉われず常に新たな音楽の領域に挑戦し続ける幅広い音楽性の持ち主でもある。一聴して森と分かる、独特のハスキーボイスを特徴とする[4]。「演歌の枠にとらわれず、いい音楽であれば何の障壁もなく耳を傾け、自分の世界に取り込みたい」という彼の思いに共感する松本隆、大瀧詠一、長渕剛、小室哲哉など他ジャンルのアーティスト達と積極的に交流し、提供曲を精力的に歌い、発表した。 1968年『第19回NHK紅白歌合戦』に初出場して以来、2015年(第66回)の紅白まで48回連続出場[5]。初めてトリを務めたのは、出場2回目である1969年(第20回)の「港町ブルース」で、白組におけるトリ歴代最年少記録を持つ。トリ通算出場回数は9回で、美空ひばり、五木ひろし、北島三郎(いずれも13回)に次いで歴代第4位。トップバッターは2回務めている。 大原麗子・森昌子との結婚歴があり(いずれもその後離婚[注 1])、昌子との間に誕生した3人の息子のうち、長男森内貴寛は元NEWSのメンバーで、現:ロックバンド「ONE OK ROCK」のボーカリスト(TAKA)、次男はテレビ東京の社員[6]、三男森内寛樹はロックバンド「MY FIRST STORY」のボーカリスト(Hiro)である。 また、俳優の小倉一郎は親戚(互いの曾祖母が姉妹同士)であり、森は自らの座長公演で小倉とたびたび共演している。 後述の『じゃがいもの会』などの社会福祉・篤志活動でもその名を高めた。また、日本中央競馬会に馬主登録をしており、フォーレストムーンなどを所有していた[7]。 2021年春の叙勲において旭日小綬章を受章することが日本政府より公示された[8]。 山梨県甲府市で、朝鮮半島清津市生まれで引揚者の母・森内尚子と、母の幼馴染の兄で元大日本帝国海軍軍人の父・白砂三郎の長男として生まれる。3人で静岡県沼津市へ移転後妹2人が生まれるが、10歳の時に両親が離婚、母と妹とともに母の幼馴染だった父の妹を頼り下関へ移転、母子家庭となり、一寛も新聞配達で家計を支える。その後母の郷里・鹿児島に落ち着き、鹿児島市立長田中学校卒業と同時に集団就職で大阪に出て移住した。金の卵と呼ばれた若年労働者として、最初は寿司店に勤めるも1か月で退職、家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて17回も職を替えた[9]。 1965年(昭和40年)、フジテレビ系の素人参加歌番組『リズム歌合戦』に出場して優勝。チャーリー石黒にその才能を見出され、渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属した。芸名の名付け親はハナ肇であり、本名の「森内」と「一寛」から1字ずつ取り、渡辺晋のシンを進と読み替えて合成した氏名であった[10]。 1966年(昭和41年)、猪俣公章作曲、吉川静夫作詞による「女のためいき」でデビュー。元は普通の声であり、ルックスも良く、また森が実家へ仕送りをする必要もあったことからポップス系でデビューさせる予定でスクールメイツ入りさせた。しかし個性が弱いとして、チャーリー石黒は売れるためには声を潰し、演歌を歌うしかないと森と渡辺プロを説得した。 森が初めて演歌をリリースした楽曲は、レコードデビューから後の3枚目のシングル「女の波止場」。『明星』1967年3月号の新曲コーナーには「『女のためいき』が80万枚を突破した森進一さんですが、こんど、はじめてともいうべき演歌を吹き込みました。『女の波止場』がそれで、彼独特のかすれた声が、せつない女ごころを、みごとに歌いあげています。(ビクター)」とある[11]。 「恍惚のブルース」でほぼ同時期にデビューした青江三奈と共にため息路線として売り出された。猪俣はその後の彼の数多くの代表曲を手がけることになる。美声歌手が主流だった当時の歌謡界において、かすれ声で女心を歌う森のデビューは衝撃的であり、世間からは「ゲテモノ」「一発屋」と酷評された[12]。しかしその後も「命かれても」「盛り場ブルース」と立て続けにヒットを重ね、ついにはデビュー3年目の1968年、ヒット曲「花と蝶」で『第19回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。 1969年(昭和44年)には全国の港町の情景を織り込んだ「港町ブルース」を発表。22歳の若さで第11回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞、さらに出場2回目にしてこの年の『第20回NHK紅白歌合戦』のトリを務めた[注 2]。1971年(昭和46年)には「おふくろさん」(作詞・川内康範、作曲・猪俣公章)が発売され、同曲で2度目の最優秀歌唱賞を受賞した(第13回日本レコード大賞最優秀歌唱賞)。また、『第22回NHK紅白歌合戦』にも同曲で出場し、3年連続でトリを務めた。
人物
来歴
生い立ち
デビュー
円熟期
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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